光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

安部公房 「砂の女」の思い出、あと鳥取砂丘。

自分が今住まっている家屋というのは二階建ての構造であって、ということは階段がある。して、階段を上ると二階に上がれるのであって、自分は先ほどなにかの用事で二階に上がった。したところ、不快であった。むわあ、っとしたからである。むわあ、という文字はまさしくむわあ、って感じで、むわああああああああああっっっ。

つまりそのくらい蒸し暑かった、ということで、もう夏なのですねえ。
そういえば庭には見るに堪えない草草がはびこって草いきれがするし、虫さんも家の中で散見されるようになりましたなあ、風流ですなあ。花鳥風月だなあ。
というくらいに夏が近づいてきて、暑くなってきて、夏は暑いというか、あつはなつい

そして思い出すのは、安部公房の「砂の女」という小説であった。

砂の女 (新潮文庫)

砂の女 (新潮文庫)

 

 

<あらすじ>
砂丘へ昆虫採集に出かけた男が、砂穴に埋もれていく一軒家に閉じ込められる。考えつく限りの方法で脱出を試みる男。家を守るために、男を穴の中にひきとめておこうとする女。そして、穴の上から男の逃亡を妨害し、2人の生活を眺める部落の人々。ドキュメンタルな手法、サスペンスあふれる展開のなかに人間存在の象徴的姿を追求した書き下ろし長編。20数か国語に翻訳された名作。

                               紹介 

読んだのが1年前なので細かい内容は忘れてしまったが、その時の環境というか、読んでいた時の時間とか空気をよく覚えている。
つって、かなり個人的・プライベートな話になるので、なんかすみません、すみません、すみません。結論を先に述べると、読むべき季節やタイミングというのが有る本というのがたまにある、ということです、すみません。蛇足は読まなくても大丈夫です。

 

---蛇足--------------------

当時、自分はまだ東京の北区という下町の安アパートに起居していた。スピッツの「夏の魔物」に出てくるような古いアパートである。
なにゆえ古くて安いアパートに起居していたかといえば、別にそういうルンペン趣味があったのではなく、目下経済的な事情からであり、つまり金がなかった。

金がない、ということはアーバンシティにおいて死を意味するものである。
田舎、たとえば茨城県などのカントリーサイドであれば、金がなくともそのへんに大根や西瓜、茄子、萵苣、土筆などが生えていたり植えてあったりするので、それを齧るなりすればよく、運がいいと裏のグランマから助六寿司や筍を頂戴できたりする。
ところが都会ではそうはいかない。大根や西瓜がそのへんに植えてある可能性は低く、近所に住むグランマは家賃を取り立てにくるだけの亡者であったからだ。すると、そのぶんだけ都会では田舎より食べ物が入手しにくいことになり、自然と死に近づくことになる。
ただ、そこは自分もいちおう生命体のはしくれなので、なんとか生き延びよう・故郷に錦を飾ったりしよう、てな意欲・ガッツを持たないわけにはいかず、僅かな給与を僅かな食料に充てなければならん、という状況であった。食べるために働き、働くために食べる。そのなんとも言い難いサイクールに見事嵌っていた。

 

というわけで金がなくてどうなるか、というとエアーコンプレッサーが利用できなかったのである。
通称エアコンと呼ばれ、老若男女に慕われているこのマッシーンは、今やアーバンライフには欠かせないものらしく、これの使用が無いために毎年多くのおじじ様・おばば様が仏となり果てているそうだ。幸いなことに自分は当時、精力あふれる好青年であり、体力・気力ともに比肩する者はこれなく、すえは博士か大臣かと村人に噂されるほどのヤングマンであったので、エアコンを使用しなくとも生き延びることができていた。

しかしそんなヤングマンであっても、暑いものは暑い。
よく、「心頭滅却すれば・・」とかいう校長や上司がいるが、きゃつらの言う事はまったくもってナンセンスで、この科学文明真っ盛りの時代になんて阿呆なことを言っとるんだ、呆け茄子っ。と言ってやりたいが鉄拳制裁(パンチアンドパンチ)が怖いので、それをいう事ははばかられた。言いたいことも言えない世の中ですもの。

ということで、500%暑かった。
なんとかできないものか、と思案する。タオルを水に浸して体中にまいて寝てみた。全裸になってみた。南極の写真をみて空想のバカンスに耽った。あまり効果がない。体力・気力は蝕まれていくばかり。

最終段階として外の方が涼しい、ということに行きつく。
窓という窓を全開にして「やっってやったぜ、夏の野郎。みたか、もう俺に逆らうんじゃねえ、夏が。うおおおおおぉぉおっ」と心の中で勝利の雄叫びをあげ、しばらくしていたら、7センチ大のゴキブリ野郎が侵入・闖入して、自分の生活を脅かしたことがあった。
以来、自分は窓を開けることを、この世のあらゆる行動の中でいっちゃん畏れるようになり、今ではその基本動作も忘れ、カーテンも開けないまま藻のような生活を送っている。

ーーーー蛇足おわりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

金がなく、エアコンを使えないために、自分はゴキブリに襲われ、藻のような生活に追いやられ、聡明なヤングマンとしての自負は瓦解した。そのくらいその夏は暑く、その時にその部屋で読んだ本、というのが安部公房の「砂の女」である。
あの暑さを身体はまだ覚えていて、その時の空気とか光景、この本の姿が網膜から離れない。

 

ようやく本の話になるが、砂丘にある不気味な家と女から逃れられない哀れな男の話だった。
よくその描写に、「涼むものが何もなく、汗をかいては砂が肌にまとわりつき、まるで砂粒のメッキのようになって、それがところどころ剥がれたりしている」みたいなものがあって、それがとてもリアル溢れるものだったと追憶している。
文章はさることながら、その状況が自分の状況と酷似しているように感じられたからである。汗をとめどなく流しながら、忌々しい滞留した夏の大気を呼吸しながら、僕はこの本を読んだ。男の願いと絶望が、よく分かる気がした。

 

 

ここから僕が学んだというか気付いたのは、小説には読むべき環境や時期というのがある、ということである。
男と同じような状況にたまたまあった、したらその気持ちがより分かる気がしたしその瞬間のことを身体(脳みそ)に刻むことと相成った。

小説とはなんたるか、なんていうのは僕は知らないけれども、「登場人物の追体験」という狙いがひとつあると思う。その追体験は話の環境や季節、登場人物の置かれた状況に近づいていれば近づいているほど、鋭利な読書体験となる。鋭利な読書は、心と脳みそになにかを刻印する。

ただ、すべての読書においてこれを実践していたら、それは難儀なので、たまぁにこういう読み方ができるといいなあ、これから。とか思って、むわああああああっ。

 

 

この話の舞台がそこかどうかは確証がないが、先日鳥取砂丘にいってきた。

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砂、しかなかった。風が強かったのでラクダもいなかった。
一番高いところに登ると、台風のような潮風が吹き付けていて、ハーフパンツをはいていた自分のスネなどに砂粒が当たり、熱いくらいに痛かった。自分はヤングマンだったから我慢できたが、タラちゃんとか、そういう幼児であったら即死であろう。なので、観光地と雖も幼子をこの砂丘に相伴っていくのは賢明ではない。

もしどうしても「行きてえんだ。行かなきゃ俺、一生後悔すると思うんだ。もう後悔はしたくねえ、だから、行かせてくれろ!」と言う炎のチャレンジ精神を持つ幼子がいたら、宇宙飛行士かミシュランのキャラクターのような完全防備を施したうえで送り出すことを提案する。

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売店には鳥取のおばはんがいて、梨のソフトクリームを馳走になった。
「砂丘フレンド」というよく分からない施設があって、それがなんとも言えない旅情を誘う。梨のシャリっとした爽快な砂感と、砂丘との関係はなにかあるのだろうか。
むわあああっあ。