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光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

映画「追憶」みましたの

図らずもなげえので、分けてこます。
1)イントロダクソン
2)一言でいうと、あらすじ的な
3)みじけえ。
4)イマジン映画、スター映画
5)ビバ・富山湾
6)なにゆえ「追憶」

 

1)イントロダクソン
みましたの。1800円払って。
「いやしかし、考えてみると1800円というのは、結構な金額であるよなあ、と小市民の権化のような僕は思ってしまう。1800円あったら、何ができるかて、古本が15冊くらい買えるし、胡瓜の種とかを買ってひと夏その世話に没頭することで浮世の憂さを紛らすこともこれ、可能である。だから、1時間半のムービイを見るのに1800円はちと、高いなあ、きうりの種とか買いたいなあ」。

 

ということを隣のガールフレンドにおずおずと話してみたところ、埃にまみれた野良犬をみるような目つきで僕を見てきたので、1800円×2=3600円を映画館総合フロントに設置してある無人映画観賞券取り扱い機械に飲みこませ、「こんなものを食べながら見ることが許される映画なのだろうか」という一抹の不安を抱えながらもポピコーンを購入、してようやく2番スクリーンに侵入した。
ポピコーンは食べて大丈夫な映画だった。
また、1800円に見合う内容の映画だったのか。まあそれは人によると思うが、僕はまあなんともいえないなあ、と、はは、と思ったのは去る5月6日(土)。この映画の公開初日である。

 

2)一言でいうと、あらすじ的な
一言でいうと、短すぎるけどラストはキレイ、といったとこでござんす。そはいかに?てなもんであるが、まず主演である岡田准一が印象的であった。

何が印象的だったか、というのが気になるところだが、眉間にしわを寄せている岡田准一が印象的であった。というのも、映画の大半、つうか7,8割の露出において彼は眉間にしわを寄せていた。
というと岡田准一がなんか気難しい、よんどころのない事情を抱えているんじゃないか、という懸念・心配が湧き上がるが、まあその通りで彼はのっぴきならない事情を抱えているのである。

して、その事情とはなんぞや?
と気になってしまうのが人情であるが、それは映画館にて括目されよ、と映画関係者の宣伝のようなことになってしまうが、それもまた人情。
ということであらすじ的なもの。

 

<あらすじ的なもの>
親なき子となっていた篤、啓太、悟が身を寄せていたとある小さな喫茶店。彼らはつらい過去を抱えながらも、心優しい喫茶店主・涼子に守られ、そこで平穏で温かな日々を過ごしていた。しかしそんな平和を打ち破る、陰惨な事件が起こる。涼子は言った。「ここで起きたことはすべて忘れなさい。これから私たちは、他人に戻るのよ。二度と会ってはならないの」。
時は過ぎ、それぞれの道を歩む彼ら。刑事となった篤が日々の事件を対応する中、信じられぬ事件が起こる。悟が遺体となって目の前に現れたのだった。捜査を進めていくうちに、悟が最後に会った人物が浮かび上がってきた。共に幼少時代を歩んだ啓太その人である。啓太が悟を殺したのか。もしそうだとしたら・・そうだとしても・・・。
停止していた歯車が動き出す。

 

てな感じであるが、一言で断じることができないものがある。

3)みじけえ。
というのは、あまりにもいろいろな事をつめこみすぎやん、あーた。岡田准一はシリアスなのに短すぎやん、あーた。という感じが否めない、ということである。
1時間半というと、漢字の書き取りだったり、お湯が沸騰するのをただただ見つめているだけだったり、そういうのであれば「いやあ、1時間半て長いっすよ、先輩」てなもんであるが、映画における1時間半というのは短い。

といっても一概に「一時間半の映画は短い」というのではない。例えば「ミルモでPON!」の映画であれば観るのは大概キッズなので、一時間半はちょうどいいか、あるいは長い。キッズは長時間の沈黙や鑑賞に堪えうる力量を持ち合わせておらない場合が多いためである。また、娯楽映画なんかと呼ばれる類の映画も同様である。長い映画は疲れる。疲れるための娯楽映画なるものは、存在しない。軽いタッチの、ソフトでマイルドなムービイは一時間半くらいがちょうどよい。

 

しかし、この「追憶」はそういう類の映画ではないような気がする。笑い処もなく、長澤まさみの色気シーンもない。印度映画のように突然悪役があちらからつつとやってきては、200人くらいで踊りだす、というのもない。あるのはただ、人間の内奥に潜むもやややとした想い、である。アカデミックにいえば、ヒューマニズム、とかいうやつである。
そのヒューマニズムとかいうのを表現しようと思ったら、一時間半では足りないのではないか。どうなのだろうか。という思いが否めない。

例をあげれば、篤だけでも相当な葛藤、心理的な動きがある。
幼少期のあの殺人事件、自分を捨てた母親への対応、妻と無事に生まれることのできなかった子供への思い、友人を殺人犯として疑わなければならない刑事としての葛藤、エトセトラ・・・。
こうしたものが悟と啓太にもあり、中心人物ではないものの関係する登場人物にもそれぞれの懊悩がある。それを100分とかそこらで表現しようと思ったら、それは難儀なことではないか、と思うのであんす。若者的にいえば、チョーやべえ、ということになる。そんな僕も若者のカテゴリ。

 

とそのようなわけで、描かれるものに比して内容・時間が見合っていないなあ。とさもひとかどの映画評論家のような感想になってしまい恐縮である今日この頃であるが、そう思ってしまったものはしょうがない。自分に嘘をつくのは、身体に毒だ、とおばあちゃんは言っていた。

 

4)イマジン映画、スター映画
そうなると、この映画の見方は次の二通りになると、僕なんかの非映画評論家は思う。
ひとつは観る者の想像力を刺激するイマジン映画。もうひとつは、ただのスター映画である。

前者について。
時間は短く、言葉・映像として語られるものは少ないが、その背景に甚大な人間模様がわだかまっている。これをすべて語らないのが、この映画のミソだ。つまり、語られない部分を、観る者が各々の想像力で補う作業が必要になる。
「あの時、篤はこう考えていたんじゃないか。というのは俺もさあ・・・」「確かにね。そういう見方もあるよね。でも私は・・・」「なるほど、君のいうこともなんだかありそうな気がするね。」「あなたの言う事も道理にかなっていると思うわ。ああ、なんだか考えたらお腹すいちゃった!」「僕もさ、ケリー。おっと、ちょうどいいところにココスというファミリーリストランテがあるぞ」「ココスって、今はドラえもんというキャラクターがイメージキャラクターになっているけど、昔はココっていう得体のしれないクマがイメージキャラクターだったのよね」「君ってば、そんなどうでもいいことに詳しいよなあ」「そうなの、ふふ」「あははっ」かくかくしかじか・・。

みたいなことになり、想像力の応酬による会話がもたらされ、それによって「追憶」という映画の幅が広がっていくのである。それはある意味、ひとつのヒューマニズムの在り方なのかもしれない。なんてなことを映画評論家はどう思うのだろうか。トーシロの戯言と一蹴するのだろうか。そんな気がする。

後者について。
なんかの宣伝で「豪華俳優陣による魂の共演」的なことを言っていた本作品。つうことはやはりこれ、演者がひとつのウリなのだろう。ということは、それらスターによって支えられるこの映画は、スター映画、娯楽映画のひとつ、という性質も持っているように思う。

 

5)ビバ・富山湾
ということで、なーんかどっちつかずな映画だなあ、というのが正直な感想だが、岡田准一の眉間のしわ以外にも印象的だったものがある。富山湾に沈む夕日、である。


自分は昨年の夏、誰の許可も取らずに富山へとでかけ、その地にいる大学時代の先輩と室堂という山に登る、という蛮行に及んだのだが、富山に到着したその日に先輩と一緒に富山湾の夕景を見た。
ことばにならない美しさがあった。というとなんだか陳腐であるうえ、ことばになってしまっているのだが、とにもかくにも心奪われる情景であった。心の琴線にふれるものがあった。僕はその時、「仕事ってなんやろなあ・・」ということを考えていたかもしれない。考えていなかったかもしれない。そんで、その1か月後くらいに仕事を辞め、木こりになり、無職ながらも一丁前におまんまを食べては他の命を頂き、新聞社ほかの面接を受けては落ちて木こりに戻るなどして、現在に至る。
富山湾の夕景と僕のその後には関連性はないかもしれないが、とにかく何かセンシティブな趣があるのが富山湾の夕景である。

 

この夕景が本作品において、要所要所で立ち現れていた。それがとても印象的である。
これを観ると、どうしても富山湾に行ってみたくなってしまう。
富山湾には夕景のほか、ミラージュランドというちいぽけな遊園地やホタルイカなどもあって、遊行・飲食においても魅力的な場所である。

 

6)なにゆえ「追憶」
最後に「追憶」というタイトルについて。
追憶、という言葉を広辞苑で引いてみると、

過ぎ去ったことを思い出すこと。追懐。

岩波書店 第二版広辞苑

とある。思い出す、ということをちょっちかっこよく表した言葉であるが、そこにはやむにやまれぬ能動性、のようなものを感じてならない。
生きていれば、なんとまあ色々なことがある。いいこともあるし、嫌なこともある。それをさして、「人生楽ありゃ苦もあるさ」と諭すのは水戸黄門のオープニング・テーマであるが、そういうものらしい。そしてそれらの経験は、思い出、として胸中に蓄積して昭和の歌謡曲風にいえば、メモリーとなる。

人はえてして、このメモリーに頼って生きる。なんとなれば、メモリーの良しあしに拘わらず、人はメモリーによって現在の自分を自分たらしめる。いい思い出にしろ、悪い思い出にしろ、それらに支えられて今の自分がある。これからの自分がある。いつかの自分がいた。

人はいつ追憶するのか。それは、なにかしらの寂しみ、心もとなさを感じた時でないかと思う。現実に浮かれている時、追憶することはない。追憶するのは、満たされていない時、温かみのようなものを希求しているまさにその時である。
追憶しても、そこに救いがあるとは限らないかもしれない。ある種、現実からの逃避、ともいえるかもしれない。

「いつの間にか僕らも若いつもりが歳をとった。暗い話にばかりやたら詳しくなったもんだ」と奥田の民生は言うが、そんな感じの「追憶」の人々。
暗い話にばかり詳しくなった彼らが、辛くはかない記憶を追憶してしまうのは、なにゆえ。それは、人がどうしてもその記憶にすがる弱い一面を持つものであるということに他ならない。ただなにより救いであったのは、そうしてすがった記憶に他の人の温かみがあり、記憶の共有があったということである。

人間最後はひとり、と云うがそうした現実の中で、精神的なところで他の存在と繋がれているという感触は何物にも代えがたい。
他の人の記憶に自分の姿があった。それを異なる人間の追憶による追憶の交差で、確かめることができた。
その安堵が、最後の抱擁のシーンに凝縮されている。とそんな風に思う。