光る水面のドブイナジー

読んだ本とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康 「宿屋めぐり」

松本大洋が原作で豊田利晃が映画化した「青い春」ちう、不良がわらわら出てきては学校から放逐されていく、という映画がある。
そんなかで印象的なシーンがありまして。
不良の中では格が低い青木こと新井浩文が「ダチ(番長)に裏切られっちった」っつって、そんならわしもって不良の中の不良、いわゆるところの番長になった。ところが有名無実というか実力が伴っていないため、いくら無辜の学生を暴打乱打し悪ぶってみたところでダチに敵うわけがない。欺瞞のかたまりとなった青木は、ダチを越えるために最終的にきったねえ校舎屋上で命がけのあるゲームをしたのち落下して、脳みそをぶちまけてきれいに死ぬ。
死ぬ前に、部室でピンポン玉を黒のラッカーで漆黒に塗りつぶし、さりげ、「ふっ」と笑うシーンがある。口だけの微笑。目の微笑みが伴わないその微笑は、青木の抱える欺瞞が露出したものだと思う。思うんですよ。

 

宿屋めぐり

宿屋めぐり

 

 

つって、いきなり関係のない映画の話から入ってしまったのには理由があって、僕は私はこの「宿屋めぐり」を読み進める中で何度上のような「青木笑い」をしたか分からぬ、からである。自分でもなぜ「青木笑い」をしているのか読書中は不明で内心「俺は青木のように欺瞞を抱えてるのかな」と自分で自分をいぶかったりして、結局その理由は分からなかったが、最後まで読んでなんとなくわかったような気がする。
それは、種類は違えど欺瞞という共通項で青木と「宿屋めぐり」が少なからずリンクしていた、からだと思う。いやあ。

というわけで、人間の欺瞞、なんていうと抽象的なカンジが否めないって感じだが、まあ次のような感じだったと思う。
ただひたすらにあらゆる人という人が真実と嘘、理想と現実、誠実と不誠実のはざまで自他を欺き、あるいは欺かなかったりすることで時に悶絶し、邁進し、そして悶絶する。し続けていく。それこそがこの世の中なのよ。そんで、輪廻なのよ。宿業なのよ。カルマなのよ。僕たち人間なのよ。

てなことが600ページにわたってぬりぬり書いてあるのだなあ、いやあ、と思ったわけで。
熊太郎のもやもやを描いた「告白」と並ぶ、人間存在に迫るマチダコーの力作だと思うわけで。

祓い給い清め給え、守り給い幸わえ給え。

 

【あらすじ】
逆らったらまあ五体の無事は見込めないだろうな、くらい恐ろしい主の命を受け、大刀を大権現に奉納しに行く事になった鋤名彦名。ひょんなことから変な世界、嘘で塗り固めたような現実感のない世界にばまりこんでしまう。それでも主の命を無視するわけにはいかず、なんとかこの世界の大権現に大刀を奉納しようとするのだけれども、まあうまくいかない。というのは、行く手行く先に酒坂石ヌ、ポーラ、珍太などのライバルが現れ、あの手この手の嘘で世を渡り歩き、何かと鋤名を陥れようとするからである。そんな嘘で生きる彼らに対峙し、俺は真実真正にやったろう、そんで大刀を奉納して元の世界に帰ろう、なんてことを鋤名は誓う。しかし、やはり、うまくいかない。
と思って腐りかけていた矢先、珍太のもとで働くルンという女に出会う。ルンは驚くべきことを鋤名に語った。「あなたは別の世界からやってきた人間でしょう。私はあなたを待っていました。私とともにここを逃げ、元の世界に帰りましょう」。相分かった、てことは珍太が邪魔なんだな、ってことで珍太をぶっ殺そう、よし。
これで俺はこの美しい女・ルンと元の世界に戻れるぜ。と鋤名彦名は思っていた。嘘の世界にやっと微光を見出した気がした。その時は。

 

全体的なテイストはいつもと変わらず、言葉選びのユーモアと思考実験の連鎖は非常に痛快。その上で、本作の主なテーマはおそらく「輪廻」ということなんではないだろうか、とまあ僕は単純に、単に考えついた。

この世の成り立ち、出来事、営み、結果というのはこれ、人間には及びのつかない何かしらによって予め決定されているところがあり、その上その出来事や結果はメービウスの輪のように終わるようで終わることを知らない。ぐりんぐりんと時を変え人を変え、未来永劫回転し続ける。そのままにあり続ける。
そしてその世界は人間の生まれ持つ業によって、綺麗に、汚く機能する。
誰が綺麗で、誰が汚いか。それはその時に与えられた配役によって決定し、決められたとおりに綺麗に生き、あるいは汚く生きる。それぞれがよかれかし、と思いながら。

僕たち人間の世界とその在り方ってそういうもんじゃないのか、そういうもんだよ、ってことで虚無やなー。とまあそういうことをマチダコーは描いているんじゃないかな言ってるんじゃないかなあ、と思い至って今の僕。

 

とそんな感じに思いつめても難しいことは分からんし、分からんけど分からんなりに重みのある話だったと思う。
酒坂石ヌ、ポーラ、珍太、ついでにポポロ師匠。いるよなあ、こういう輩、実際。むかつくわー、やるせないわーとは思うけど、その悪・偽善・欺瞞を正当にしのぐことができない自分がそこにいて。いや、しのごうと思えばしのぎまくれるんだけど、それは自分も輩と同じレベルの欺瞞・偽善に転がり落ちるわけで早い話が同じ穴のムジナ。
ムジナになるわけにはいかず、そこはまあ器の大きいところを見せたろうかなとか思って、彼らの悪事に目をつむり、「落ちるとこまで落ちやがれ」的な、お好きにどうぞ的なスタンスで飄然を気取る。
しかし彼らはなんの痛い目を見ることもなく落ちることもなく、欺瞞と偽善の要塞をより強固にしたてあげ、やいのやいの持ち上げられる。何も、何の裏も分かっていない有象無象に正義だ真実だ本物だ、と称賛される輩を尻目に、「なーんたらことか。何が正義だ、うすのろ共。ちったあその眼をひんむいて奴らの本当の姿を知りやがれ、おタンコ茄子」みたいなことになるものの、やはり正当に、真正の正義と民衆の正義にのっとって欺瞞を撃破消沈することができない。
そんで負け続ける。
負け犬だあ。二の舞だあ。没。

 

みたいなことは正味、現実に有りますわな。あるんだすな、かなしきかな。
そんでいつも負け続けるんだな、マチダコーの主人公は。
というのもこれは当然で、まあ今のマチダコーが負け犬かどうかは置いといて、マチダコーの源流はやはり「負け」ということにあると思う。パンクロックに浸かっていたことから。今も浸かっているんだろうけど。

負け犬にしか見えない景色があって、負け犬にしか読めないフィーリングがある。
そこに真正なにおいのするものがある。
それを文字にするのが、架空の人物に演じさせるのが、惚れるくらいに鮮やかできれいで哀しくて。
ということで、町田康はそういう作家なんだなあ、という思いを強めた一冊。

 

 

 

最後に、この話でおっそろしいなあ、テリブル。ってなった場面はいくつかあるが、珍太が鋤名に惨殺されるシーンは悲惨というか凄惨。人間、こんな風には死にたくねえなあ、という感じだがそれ以上に恐ろしいのは、いっちゃん最後の箇所である。

遠くから、きゅっきゅっきゅっきゅっ、という音が聞こえて、すぐにやんだ。
なんだったんだろう。まあ、いい。ゆっくり行こう。なにもかもはよい感じなのだから。そう考え、俺は境内の奥へと進んでいったのである。

                        602ページより引用

ネタ・バレだが言うと、誰か知らん新しい人があの世界に引きずり込まれた。ということであるよね、これはきっと。んで、異世界に迷い込んだそいつは、石ヌだか珍太だかそれが誰だかは分からないが誰かに妨害・排他され、理不尽にもまれのたうち回った挙句に頭蓋をかち割られ悶絶死する。そのレールが先見えぬ果てまで、淡々と確実に敷かれている。
そいつが主によって戻ってきたら、また別の奴が同じ目に遭うんだろう。これが永劫回帰する。リ・サイクル。これって、絶望というか、最大限に切ない。この切ない、は「こうなったら桜の木の下で熊田くんに告白しようと思うが断られたらショッキングで、それなら今の仲良しな関係を保つ方がまし。でも・・・」という切ないとは別。あたし対熊田の間の個人的な切なさではなく、人間対なんかよく分からんけど絶対的な何かの間のイマジンを越える切なさである。

 

つうことで、とても面白い一冊だったので候。