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光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

堕落サイダー

例えば、牛乳。牛から抽出したドリンクをコップに注いでぐい、と飲んだ者があったとする。
旨かった。
底には滴り落ちきらなかった牛乳が残っている。

んでもってその男は、いや男か女かそれは分からんけどその男が、次は三ツ矢サイダーを飲もうかしらと思い思い三ツ矢サイダーをそのコップに注ぐ。
するとどうなるかっていうと、サイダーは白濁する。コップには牛乳が残っていたからですな。

そのサイダーは、紛れもないサイダー。
いや極めて詳細な成分を精査すれば牛乳が混入しているから、それはもはやサイダーではないかも知らんが、九分九厘はサイダー。九分九厘ということは、サイダーといっても過言ではない、ちゅうことだす。

このサイダーは旨いのかそれとも否か。
見た目。不味そう。
なんでて、白濁しているからである。すると白濁愛好家が反駁するね、きっと。確かに愛好家の主張するとおり、白濁してればなんでも不味そう、というわけではなく、むしろ甘酒・バナナスムージーなどは濁っているべきではある。
しかし今問題としているのはサイダーであってスムージーではない。
サイダーは透明であるべき、という概念・イデア古今東西を問わずに共通のものと誰かが言っていた。


しかし肝心なのは味じゃあないのかね。
と大滝秀次のようなじいさんが訥々と切り出してくるかもしれない。
そう、サイダーの役割つうか使命つうか、根本的な是非はその味にある。物にはすべてこれ、各々の役割が備わっていて例えば電話なら遠隔地にいる人と時同じくして会話できること、爪きりであれば余計な爪を切除できること、などそれぞれの仕事があるんである。
んでサイダーの仕事は、飲む者に「美味。」と感じさせることだ。
てなことを思ってその男はその白濁液を飲んだ。
旨かった、美味だった。
白濁していても、やはりそれはサイダーであった。

見た目は不味そうでも、本来の仕事は忘れていなかった美味しいサイダー。
でも。
でも、と言うのは男じゃねえ。と言う人があるが、でもこのサイダーはやっぱりサイダーじゃない。
見た目が微妙でも美味と感じてしまうある男に腰かけ堕落したサイダーである。
堕落したサイダーはもはやただの白濁液であって、男はその白濁液に美味を感じ、満足した。
するとどうなるかって、この男もまた堕落した男、というわけなんだすな。サイダーを飲まんとするのであれば、一分の隙もない完全無欠の、少なくとも透明なサイダーのみを認める。これこそがサイダーを飲む者の掟つうかルールつうか、模範でありそれ以外は中途半端、つまり堕落なんである。
堕落に妥協すると自らもまた堕落と化す。
類は友を呼ぶとかいう言い伝えがありますが、堕落は堕落を呼ぶのです。


そしてここに来て思うのは、俺はいったい何を考えていたんだろうなあ、ということそれのみで、残るのは底の牛乳のようなそんな気持ち。