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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康 「正直じゃいけん」

書評 町田康

 町田康に惚れてからというもの、手当たり次第に氏の作品を読んできて思ったことがひとつ。
 なんでこの人はこんなに踊るんだろうか。

正直じゃいけん (ハルキ文庫)

正直じゃいけん (ハルキ文庫)

 

 わしが読んだのはこの表紙じゃなくて、魚のようなかぶりものを被った二人が差し向かいでコーヒーっぽいものを飲んでいる、という文字にすると意味わからん表紙の方。
 でも、この夕やけの表紙もいい。黒い夕陽は珍し。

 

中身はまあいつもと変わらない町田康の思考がとめどなく流れてくる感じなんだが、やけに踊るなあ、と意識したのが五十七ページ。
図書館の本を借りて読んだもので、平和裏に返却してしまった今、引用することが叶わぬのだが、とにかく踊っている。意味の分からない脈で。

「そういえば・・・」と思って数ページ遡ってみると、十五ページでも踊っている。
 なんだ、この人は。そんなにしょっちゅう、踊るもんだろうか、人間て。
 いや、踊る人は踊るかもしれない。踊ることが仕事であるダンサーの類の人たち、昔バレエをやっていた類の人たち。そういう踊ることが日常茶飯だった人にしたら、踊ることはこれ、歯を磨く・テレビを見る・鼻歌を歌うくらいに身近なものだろうが、町田康はパンク歌手であり、役者であり、作家である。踊りが必要でないとはいえないが、一般常識とやらに鑑みて、小踊りすることはないであろう分野であると思う。

それならばなにゆえ町田は踊るのか。そこまで踊るのが好きならこれからも踊るだろうし、その秘密も自ずと明らかになるだろう。と、読書を進めた。

 

 

がしかし、その秘密が明かされるどころか、その後は一度しか踊らなかった。
 百九ページで小踊りして、それきりである。
 とすると、僕の考えた「町田康は踊り好き説」はまがい物だったのか。

といえば、それもまた違うとは思う。町田康はこうしたエッセイだけでなく、他の小説・短編でも随所に登場人物が小踊りする描写を書いている。踊り好きでなければ、っていうか踊るイメージが脳内にある程度染みついていなければ、こんなに踊るわけがない。間違いなく、町田康は踊ることが好きだと思う。
 だいたい一冊のエッセイの中に3回も踊るシーンがあること自体、もはや尋常ではないのだろうか。日常生活にひそむ小踊り。

つうことで、日常的に踊るというのはどんなもんなんだ、と気になったので自分以外に誰もいない自宅で神の河を片手に踊ってみたが、底知れず悲しくなった。夜だったもので、窓に映る自分の踊る姿がぼんやりと浮かび上がり、その光景になんとも言えない虚無を感じた二十五の夜。
 町田康のメンタルはすげえ。精進しなくてはならん。

 

それからこれもいくつかの作品を経て感じた事だが、ルー・リードも好き。

 

本の後半では書評が載っているが、ここには中島らもへの敬意・愛が感じられる。
 とまあそんな感じで町田康の好きなもの、あとはまあ嫌いなものがつらつらと、そこはかとなく書いてあって、ファンとしては大満足。

 

内容としては、人名に関する逸話がおもしろい。
 サイン会での漢字の書き取りとか、自分の「町田康」という名前が「町田忠」や「町田孝」、はては「持田」に間違われてしまうその理由と抱負なんか。

みんなが野球に夢中になる中、読書に傾倒していった話も、そのルーツを知るようで興味深し。

 

図書館で借りたけど、どこかで見かけたら買って手元に置きたいズラ。