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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

映画「沈黙」をみましたの

みましたの。って婦人ぽいけど私は男です。れっきとした男ですが、それでもみましたのって言いたくなる時くらいある。

そんなこんなで私は思った。
 毎日毎日薪をこさえていて、こんなことで俺は果たしていいのだろうかもっと文化的な生活を送るべきではないのか、と。一人でハラハラし、思い立ったがいざ札幌。飛行機に乗せてもらって向かったは、札幌駅の映画館「シネマフロンティア」である。

 

そういうわけで「沈黙」を観賞。たまに来たのだから、という私情でつい買ってしまったポピコーンを食べるのがためらわれるような、シリアスな映画だった。

 

沈黙

 

遠藤周作のこの作品が原作とのこと。関係ないが、その昔、髪をかき上げデコを見せる「遠藤周作のマネ」というのがありましたな・・・。

 

<あらすじ的な>
 日本へ宣教に向かったフェレイラ神父の消息が途絶えた。聞くところによると、彼は棄教して日本に帰化したとのことである。その真相を確かめるべく、ロドリゴとガウペのふたりはポルトガルに流れ着いたキチジローという日本人を連れて日本へと向かう。
 無事来日を果たし、農村漁村に居場所を確保するが、そこは隠れキリシタンの集落であった。キリスト教は迫害の対象となっており、その信仰を公にすることは憚れたのである。
 やがて、彼らの信仰は役人の目に留まるところとなってしまい、棄教できなかった者はみな拷問の末に殺されてしまった。宣教師の身を案じた村人は、他の地へ逃げるようにふたりに仕向ける。

しかし、その道中で役人に捕まってしまったロドリゴ。棄教を迫られるも、キリストへの信仰心を忘れようとしない彼が見たものは自身の信じる神の無力さを物語るものだった。友ガウペの死、その他数多の信者がもだえ苦しむ姿を目の前に見せつけられた。
 その間神は沈黙していた。

満身創痍となったロドリゴであったが、ついに探していたフェレイラ神父との邂逅を果たす。しかし、そこにいたのはフェレイラという名の神父ではなく、もはや日本の名前を与えられ日本人として生きる元神父であった。彼はなにゆえ国を捨て、教えを捨てたのか・・。
 ロドリゴの下した決断、最期のその姿に「信仰というものは何か」を問いかけられるように思う。

 

いや、ほんとにポピコーンをまさぐるタイミングをうまく読まなくてはならない映画だった。ていうか、ポピコーン買わなきゃよかった。

なんかすごい映画らしく、見た後に「沈黙 感想」で調べてみたら出てくるわ出てくるわ、やたらすんごい感想が説明が。
 みんなすごい分析しとるなあ、と感心しきりでもはや言えることは何もない、てなもんですが心に残ったことをば。

 

・外国人から見た「日本とキリスト教
 名前忘れたけど、なんや外国のすげえ監督が構想から30年くらいかけて作成したものらしい。日本人が、しかも純粋たる歴史上の日本人がやたら出てくるので、日本人が作ったんかねえ、と思ったがどうも違うらしい。

作中での日本人、というか役人だけれどもその姿は狡猾極まりない。ように見えた。
 役人と農民の差別的な関係性、異教徒への辛辣な暴力、閉鎖的な雰囲気。
 これだけ見ると、日本という国がとんでもなく恐ろしい国に見える国民に見える。
 そういうある種の残酷性を描き出す意図があるんだろうけど、その様相は日本人の自分からしても恐ろしい。

フェレイラ神父の「なぜ日本でキリスト教が根付かないのか」という見解は、まさに外国人の視点がないと出てこないものだった。
 「日本では特定の人物や「神」ではなく、太陽や海、その他自然界のありとあらゆるものに信仰心を抱く。その地盤はキリスト教にとってみれば、いわば沼のようなものだ。沼に大木は根を下ろせないのだ。」というようなことを神父が言っていたが、言われてみればそうだなあ。
 そういえば、八百万の神とかそのほかの伝承に残される神様は、なにかしら森羅万象と関係して語られる。序列はあるものの、神様がいっぱいだ。多神教と意識はしないが、確かに多神教である。ある特定の唯一神を心に描くことがない。
 日本人は無宗教だ、なんて言われることがあるが、それは他の宗教圏から見ると心底不思議なんだろう。だからこそ、日本はキリスト教にとって、沼。

 

これを語るフェレイラ神父とロドリゴのシーンはとても印象的だ。この直後にロドリゴはキリストへの信仰を曲げ、踏み絵をし、そのまま泣き崩れる。自らの命を賭してでも思い続けた信仰心を、暴力のもとに踏みつぶされる心境は、いかばかりであっただろう。
 とはいえ、強い信仰心を持つなんらかの教徒ではない自分を含め多くの日本人にとって、ロドリゴやフェレイラ神父の胸中を推し量ることは到底できない。
 外国の人が、キリスト教徒がこの映画を見たら、なんて思うのだろうか。
 きっと、私はそれすらも推し量ることができない。共感には程遠く、覚束ない想像しかできない。

この点において日本人と他の国の人とでは、受け取るものがまったく違うんだろうなあ、と強く感じる。

 

・「信仰とはなにか」の個人的な感覚
 フェレイラ神父とロドリゴは結局、棄教して日本の名前を与えられ、日本人の女性と結婚し、日本人として以降生きることになった。
 がしかし、フェレイラ神父の言葉には「主=キリスト」に対する思いが感じられ、ロドリゴは棄教したのちにやってきたキチジローの懺悔に手を貸してやったし、その最期では仏教にならって火葬に処されたけれどもその手中には十字架がひっそりと収まっていた。

なんつうのかなあ、こういうのは。
 不言実行というとなんか違くて、「善きことは人に知られないようにやりなさい」という感じの教えが聖書にあったかと思うが、まさにこれなんではなかろうか。
 誰にもその信仰は打ち明けず、ただ人知れずひっそりと教えに生きて、死ぬ。
 キリスト教にそんな詳しくないので恐縮だが、宣教・布教やそのほかのあからさまなキリスト教的行動(直接的に隣人を愛するとか、罪人を赦すとか)というのは、実際的なもの・形あるもの・何かしらの結果が伴うものであって、他人がいて初めて成り立つもんである。

そこへいくと、フェレイラ神父やロドリゴの棄教後の行いというのは「他人」が関わるものではなく、あくまで自分に限定された行い。
 もはや何の見返りを望むでも、報酬を望むでもなく、ただただ自身の信ずる心を以て、祈る。

皮肉なことだが、棄教という教徒的な意味での絶望の淵に臨んでこそ、フェレイラ神父とロドリゴの信仰は一分の隙間もない純粋さをもっていたのではないか。

 

そう思ってみると、「信仰とはなにか」という自分なりに受け取った映画のメッセージ形が少し整っていく。
 それはたぶん信仰、でなくてもいい。それは例えば信念、願い、欲望、思い、希望などなんでもいいが、死の淵・絶望の淵に佇み、色々なものが削ぎ落とされていく中で最後まで残っている何か。何かへの言い知れぬベクトル。消し炭のようでくたびれた、それでいてしぶとく頑丈な最後のベクトル。どんな状況であっても、そこに確実に光を見出してしまうその心持ち。

それが信仰心というものなんではないでしょうか、フェレイラ神父。と、かように思った。

 

 

てな感じで的外れな感もあるが、印象に強く残る映画であんした。
 窪塚洋介が演じるキチジローの存在もかなり示唆的であり、挙動不審な目の光がとても強い。

 

 

いや、やはり家にこもって薪をこさえて本を読み読みしてるだけではあかん、ということも改めて実感。よい映画なり。

劇場内ではじいちゃん・ばあちゃんズの姿がよく見られた。そのような環境でポピコーンを食べるのはやはり若々しすぎて逆に目立つので、なるべく控えたほうがよい。むしろ、身近にいるじいちゃん・ばあちゃんズを誘って行ってみると、共通の話題ができるうえに、帰り道に鰻とか食べられるかもしれないので、おすすめであんす。