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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

百聞は一見に如かずとかいうアレ

よしなし

僕は他の人のブログをよくみる方ではないと思うんだが、こないだたまたまネットワーク上をぶらついていたら、つまり業界用語でいうところのネットサーフィンなる行為をしていたら、
2017の抱負: 外にでて実際に目で見てみること!
とかいうタイトルの記事があって、ほう、となった。早い話が共感した。だってそう思うもの。リアルは生で見ないと分からない。経験しないと分からない。少なくとも、僕はそうしないと分からない。いろんなことが百聞は一見に如かず。

長いです。


こう思うようになったのは、大学の2年の時にひとりでインディアの国にぶらつきに行ったのがきっかけである。そもそもそもなんでひとりで行ったかということなんだが、別に一緒に行く人が居なかったわけでも、なんらかののっぴきならない事情があったとかいうわけではなく、ただただひとりで日本の外に出てみたかったからなんでありまして。

まあそれにも理由があって、その前の年に僕はヒロシという予備校時代の友人とトルコに行ったのだ。まだトルコが安全な頃だった。イスタンブールはきれいだったし、トルコ風呂はいてえし、ガラタ橋の釣り人を見るのが愉快であった。僕らが起居していたのがイスタンブールから多分400キロくらい離れたフェティエというなんか有名な廃墟群がある田舎町で、そこにあったキャンプに僕らはいた。

トルコのおもしれえとこは、まあトルコ料理とかなんやらダンスとかオスマントルコとかあるんだろうけど、各家庭にプールがついている、というのが面白い。田舎だったからかもしれんが、どこの家をみても必ず屋上があり、そしてプールがあった。暑いからね。プールにはアヒルかカモが浮いていたのが印象的。
で、まあそのトルコキャンプで色々あったんだけど、ひとつ衝撃的なことがあって、それは何かというと、僕は周りの若人と会話をすることがほとんどできなかった。なんで。なんでて、英語を使いこなせないから。ハローとかベリーナイスとかは言える。コミュニケーションはとれる。でも、話し合うことができなかった。ニーチェの思想とか、韓国の徴兵制についてとか。ほえええ?って感じよ。そんでばつの悪いことにというかなんというか、僕の連れ合いがこれまた英語を堪能に駆使する強者だったのですわ。そうなると僕は彼らの談義について行けず、彼が日本語で説明してくれるもやがてなんだか申し訳なくなり、仕方なく村の子供と折り紙をして遊ぶか、スペインから来た粋なおばさまとプールサイドで日光浴でもするしかなかったんである。トルコの太陽は実に、まぶしい。

こうなってはもうたまらんわけ。こちとら日本男児だ、このまま指をくわえてしゃぶっているわけにはいかぬぞえ。ってんで、僕はひとりでも海外でやっていけることを自分自身に証明するために、ひとりで海外にでることに決めたんである。トルコではその友人におんぶにだっこで、コアラみたいな状態だったから。情けなかった。同じ大学生でありながら、とほほ。

こう改めてみると、のっぴきなる事情だった。まあ、そういうわけで大学2年でインドに行った。何のプランもなかった。目的が、ひとりでも海外でやっていけること、つまり生命力みたいなものを証明したいだけだったから。どこに行くとか泊まるとか、そういうことは一切決めずに、行く日と帰る日だけ決めて、寝袋をもって飛んだ。あと服とかロープとかも持って。


インドについたら着いたでこれまたいろんな事があって、ウブな僕はいちいち感動、衝撃を受けていたんだが、僕はここで本物の貧困というものを見たように思う。という話をするには、またくどい話をしなければならないのだが、ひとりのインディアンが関わってくる。
インド初心者の僕としては内心不安なことがたくさんあったが、生きて帰れたのはジャビドという友人のおかげであった。ジャビドとの馴れ初めはマーケットで、僕はその時サンダルを探していた。みんなやたら拙い日本語で話しかけてくるが、たいていはいい人間ではない。何かしら企てがあって馴れ馴れしくしてくるんだが、僕はなにを思ったのかそのうちのひとりについて行ってしまった。しかし、このひとりは珍しくほんとにいい人だった。それがジャビド。
ジャビド「サンダル探してんのか?うち、サンダル屋だぜ、ついてきな」
僕「マジ?メルシー」
というやりとりをして彼の店に行ってみたが、そこはサンダル屋というよりかは土産物屋。どこにサンダルがあるってんだべらぼうめ、と江戸弁でインディアンをビビらしてやろうかと思ったところ、レジスターの下にちまちまとサンダルが3足ほどちんまりしているのに気付く。
そんなこんなで怪しいけどまあ信用できるというか、そこまで不安ではない現地の友人ができ、少々立ち話をした。なんでインドにきたのか、どこに行きたいか。僕の目的を伝えると、ジャビドは「リアルインド」と言った。お前はリアルインドを見に来たんだな、と。まあそうは考えてもなかったけど、まあそういうことか、と思って「そうだよ」と答えると、「そういうことなら俺の親戚の家でホームステイさせてもらえや」と言う。ああ、これが旅の出会いつうやつか、美しいのお。と胸が期待と不安でいっぱいになった。
話を聞くと、ジャビドの親戚の家はブダガヤーという比較的大きな街から北進したところにある村にあるらしい。その村まで、現在地のコルカタからおおよそ500キロ。こうして思いがけずに、僕とジャビドの二人旅が始まる。


このジャビドという存在がいわずもがな、非常に大きかった。インドの風俗や風習、考え方、作法などを事細かくいちいち教えてくれた。
そして、その教えのひとつが道端の物乞いにものをやるな、ということだった。どんな考えがジャビドにあったのかは分からない。僕はただ、いちいち無数の物乞いを相手にしていたらキリがないから、くらいにしか考えていなかった。その真相はいまだに分からん。
インドの物乞いのレベルははんぱなかった。日本の都市部にみられるようなホームレスとは、はっきり言って次元が違う。子供を連れて、あるいは自らの手足を折って同情を誘ってくる。生きるために手足の骨を折るような、そんな世界がここにあった。
物乞いでなくても、低所得の人たちがそこら中に横溢している。道を歩けば実に色んな者物に会った。道路のすみでよくわからんものを売る婆あ、水道で身体を洗う爺い、裏道の真ん中で火を焚いて飯を作る母親、車をかき分けて運転手にねだる子ども、花壇で寝るおっさん、生ゴミの山、狂犬病の野良犬、野良イノシシ、得体の知れない液体、鳴り止まぬクラクションの音。口にすれば他愛もない言葉だが、それはまさにカオスそのものだったと思う。秩序という、整理整頓的な響きの何かがここにはなかった。目に入るものすべてがスラム。ある意味、まずしさゆえに生への渇仰が形をなしたようにも思えた。

そんな感じで当初はインドの貧困やべえな、くらいにしか思っていなかったんだが、そうしたリアルインドをジャビドから教わるにつれて、なんだかこうした状況に腹が立ってきたというか虚無を感じるようになった。
インドの貧困は凄まじいが、富裕層も凄まじい。正確なデータは知らないが、おそらく国内の経済格差は世界一なんではなかろうか。ブダガヤーのホテルに泊まる時にロビーでチェックインしていると、ホテルのガラス扉の向こうにスラム街が見えた。スラム街の人はみなボロボロの服を着て、すすけた顔をしており、母は道端で炊事を、子どもはその周りを裸足で駆けて遊んでいる。インドの8月はとても蒸し暑い。しかし、ホテルの中はとても快適だった。クーラーは利いているし、冷たいビールもある。ホテルの人はみな清潔だし、寝苦しい夜にうなされることもない。守られた、安全な、選ばれた人だけの空間。
ホテルのガラス一枚を隔てて、そこはもう完全な別世界だった。確かにどこの国や地域であっても、貧富の差はあって、住み分けが自ずからなされているとは思うが、ガラス一枚で隔てるようなそんな身近な貧富の差を僕はこの他に見たことがない。ほんの数メートルの差だった。その数メートル、数100センチの違いに、いったいどれだけの違いがあるというのか。
なんだかこのあたりから、僕はこのインドという国がどうしようもないように思えてきていた。貧富の差、これはもう本当にどうしようもない。カーストってなんやねん。ていうか、なんで仏教の生まれたこの国でイスラム教とヒンズー教が戦争してんねん。意味分からんわ。なんなん、この国、やたらねだってくるし。そんな風に思うようになっていた頃に、前正覚山というブッダが山籠もりをしたという山にジャビドと行くことがあった。

ブッダがなにか大切な修行をしていたという大変ゆかりのある洞窟があったり、金色の仏像があったりしたんだが、これまでインドで見てきたものをここで色々と考え込んでしまい、僕は仏像の前でしばらく考え事をしていた。
なにを大それた事を思ったのか、僕はそこで平和というものに思いを馳せていたと思う。それまで見てきたものを自分なりに考えてのことだった。もちろん、答えは出ない。ジャビドが待ちくたびれて、帰ろうと言った。そして、ジャビドと山を降りている時だった。
近くの村に住んでいるであろう6、7人の子ども達がわらわらと寄ってきたのである。いつもの物乞いのように。ジャビドから物は遣るなと言われてきていたが、僕はこの時始めて物乞いに物を遣った。あげられる物は片っ端からあげた。えんぴつ、ペン、メモ、小銭、なんかの本、菓子。残ったのはクタクタになった財布とパスポートとリュックだけだった。子ども達はみんな礼のようなものをいって、小走りに駆けていった。

自分でもはっきりとは分からないんだが、なんでジャビドの言いつけを守らなかったのかを自分なりに考えてみると、僕はなんらかの形でこの貧困とかそういう困った状況を変えてやりたい、と心のどこかで思ったんだと述懐する。でも、ペンやら小銭やらをあげているときに気付いた。こんなペンやら小金でこいつらの生活がよくなるだろうか、いやならない、俺のやったことはきっと何もなっていない、この子らを助けることはできない。そう思うと、涙がこぼれた。悲しかったのではない、もちろん嬉し涙でもない。多分、あれは怒りの涙だった。どうすることもできない無力な自分への怒り、こうして不健全に不均衡にでも廻っていく世界や社会への怒り。あるいは、虚無。

そしてその時、「ああ、貧困ってこういうもんだな」と強く思った。貧困の現状なんて、本や写真、映像を通していくらでも知ることはできる。事実、僕はそれまでに幾多ものそうした資料を通して「貧困」を知った。でもそれは、単なる知識であって、具体性を全く伴ってなかったに違いない。
あの子ども達とふれあった数分間は、極めて具体的で体のあちこちに刻まれたように思う。あの時の山や土の色、子どもの表情、ジャビドの様子、空気、湿度、滲む空。訴求力が桁で違かった。この数分間に、僕はいろんな事を唐突に教えてもらったような気がする。
ジャビドはこうしたインドの生々しさを見せてくれたということもあって、とても大きな存在だった。ハイウェイを逆走した時はぶん殴ろうと思ったが。
よく、「インドに行くと人生観変わる」だの「インドに行ったくらいで人生観変わるとか、しょせんそれだけの人生観」だの色々言われるインドであるが、このインドを見て何も心動かされない日本人というのは、それはよほどの地獄を見た者、あるいは聖人君子か悪魔かどちらかではないかとすら思える。それくらい、インパクトのあるぶらつきであった。

何冊の本を読み、何百枚の写真を見ようとも、ほんのわずかな生の時間には敵わない。生の時間とは、そのものにふれる経験。だから、経験することは多くを語る。そういうことで、百聞は一見に如かずという言葉を信じるというか納得するようになった。

だから、僕はなんでもたいてい間違う。だからっていうのは自己弁護のようだが、僕は阿呆なので先見の明がまったくなく、誤りを犯して後になって気づく。ああ、これはやってはいかんな、と。ただ、躓いた負い目があるから、そこでよく考えたりはする。何事も経験じゃ、ってどこかのおっさんも言ってるし。とにかく、生の経験はすごい、というのはおそらくこれからもひとつの価値観として僕の中にあるだろう。


そんなわけで、共感したその抱負のブログ記事を読んでみて一見本気っぽかった(色々と昨今騒がしい韓国に足を運んでみるとのこと。危険があろうと見てみなきゃ分からないことはあるはず!みたいな感じだった)ので本気のコメントしたろ、と思ってほかの記事見てみたら、「今度韓国いってみようと思う。こないだ行ったパブで搾ったレモンをテーブルに投げ捨ててる韓国人がいて、それがちょー格好良かったの!」ということを宣っていて、本気のコメントしなくてよかったなあ、と思ったってことがあったって話。