光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

中島義道 「働くことがイヤな人のための本」と自省

母校の知り合いで、40代にして院で数学をやってるおっさんに、君も読んでみるといいよ、と薦められた本。

             働くことがイヤな人のための本―仕事とは何だろうか

ふむ。仕事を辞めて以来、こういった仕事に関する本を意識的に、そして無意識的に退けてしまっていたが、改めてこういった本を読むのは大事だなあ、と単純なことを思いますた。

時期的にも満を持してる、かどうかは分からんが、尻に火はついているそんな気がするので、そろそろ外に出なくてはならん。

 

印象的だったことをいくつか。

・世の中は理不尽そのものである。ということを前提とする大切さ
「働く」ということの前に前提としてスケールが大きい話がある。
不謹慎なことかもしれないが、この世に生を享けた事そのものがまず、理不尽。
事実として、両親に産んでくれと頼んだわけでも、何かに応募したわけでもない。
自分の意見は一切反映されずに、ただ、オギャア、と泣いて生まれてくる。そして最終的に待つものは、逃れようのない死。どんなに生きたくても、死にたくなくても、必ず死ぬ。
この生物としての始まりと終わりは、理不尽そのものである。

 

そして、生きている人間に目を向けてみても、そこは理不尽だらけ。
世の中には大雑把に分けてしまうと、いわゆる「勝ち組と負け組」「善と悪」「成功と失敗」などの二項対立に分けられる。確かにある見方をすればそのような区別が存在するかのように思え、それらは必然的に、なるべくしてそうなっているように思える。つまり、成功者は血のにじむような努力をして、臥薪嘗胆にして粉骨砕身、掴むべくして成功をつかみ取った一方、敗残者はなんの努力もしないで、ただ指をくわえて気ままに享楽的にしていた、だから(成功者になるために、落ちぶれないために)精一杯がんばれ、という方程式ができる。ただ、これは多くの人が「人生は理不尽である」ことから目を背けているだけであり、内実としてはいくら努力しても報われない、芽が出ない人はいるし、のらりくらりと適当にやり過ごしていても棚からボタモチが落ちてくる人もある。

どんなことにだって、努力などの成功への行動が影響することはもちろんだが、運や偶然、流行といった不確定要素も必ず含まれることを忘れてはならない。が、この不確定要素を考えてしまうと、たちまち不安になってしまう。不安は怖い。だから、成功のための方程式を求め、語り、それが絶対と思い込む自己欺瞞に陥る。
でも、現実はそうではないから、そこで不確定要素が作用した時に思う、「なぜ報われないんだ、うまくいかないんだ」「あいつがうまくいくのは狡猾だからだ」と。ズレが生じて、社会と、自分の生と向き合えなくなる。

そこで、そんなに切羽詰まることはないよ、と本は言う。そもそも、理不尽なのだから混沌なのだから、うまくいく時はうまくいく、いかない時はいかない。それだけの話じゃない。だからといって、怠惰であってもいいとは言わないし、努力の意味がないとも言わない。ただ、人は結果だけをみて判断するけど、行動と結果は必ずしも結ばれるわけではなくて、その間には偶然や運といったものもあると、それは思い知っていた方がいい。そうすれば、成功しても驕ることはないし、失敗しても「そんなもんだよ」と必要以上に悲観することもなくなる。仕事に関しても、そういったことがつきものだと思って、あまり思いつめないことです。

 

てな感じのことが書いてあった。うまくまとめられないんですが。
これは、例えば大企業に努めるエリートビジネスマンや起業に成功した人にしてみたら「んなこと言って甘えんな」という人はいると思うし、リストラされた人や仕事を辞めてしまった人にしてみたら「そんなこと言ってもなあ」と一蹴される話かもしれない。
僕もその気持ちはわからんでもないが、ただ「世の中はそも理不尽である」というのは間違いではなく、間違いでない以上そのことを念頭に置く方が、いいと思った。

思えば、アジアンカンフージェネレーション後藤正文は次のように歌っている。

拝啓 愛する家族や友人たちよ
有識者曰く、「混沌とした時代」になりましたが
この宇宙の源泉は 混沌だそうで
今更なことではないようです

                      「アネモネの咲く春に」


世の中はそも理不尽にして混沌の世界。

これは皮肉でも、悲観でも、開き直りでもなんでもなく、ただただそうした事実があるだけ。そう考えると、完璧主義にも合理主義にもなることなく、適度に肩の力が抜ける、そんな気がする。

 

・「思い込みたい衝動」、短絡的思考の危うさ
人間社会はきれいなことばかりでなく、汚い、醜悪な面も持ち合わせる。そして、複数の人間がいれば、その環境に馴染める者と馴染めない者に分かれてくる。
会社・仕事も同じことで、例えばAさんは周りとうまく同調し、自分を殺し時には汚いこともして「和」を優先した。一方、Bさんはその汚さに耐えることができず、去っていく。二人は互いに自分を守るために、次のように思い込む。
Aさんは「俺だって苦労しているんだ。なんとか折り合いをつけてやっているのに、Bときたら。あんなんじゃ社会不適合者で、どこにいったって通用しない」
Bさんは「Aは自分を殺してまであんなにのしあがりやがって。汚い、狡猾だ、不純だ。それにひきかえ、俺は仕事を失ったけど純粋だ、人間として善く、正しいんだ」
とそれぞれ思い込む。

「俺はなんとか折り合いつけて頑張る」「俺は自分に嘘をつくことなく、純粋である」とここまでは、それぞれの個人的価値として各々が考えていればいいが、その考えを唯一の真理のごとく他人に向けて「本来はこうあるべきだ」とするのは、まちがいだ。

組織に留まっていることが必ずしもごまかした生き方ではない。同じように、組織を離れたからといって必ずしも社会不適合であるわけではない。
しかし、そんなことはそれぞれ考えられない。そう認めてしまうこと、それすなわち自分が今置かれている状況の心理的安定の崩壊につながるからである。

 

特に質が悪いのは、「純粋である」と思い込むB。Aはある程度負い目のようなものを感じている分、多少自省の色があるが、Bには全くない。自分が正しい、善だと思い込んでいる。これはひとつの暴力になり誤りである、と中島さんはいう。

第一に、裁く者が自分は純粋だと信じている誤り。
第二に、裁く者が、たとえほんとうに純粋だとしても、自分に不純な者を裁く権利があると信じている誤り。
第三に、裁く者が裁こうとする者を不純だと信じている誤り。
そして第四に、たとえ彼らがどこから見ても不純だとしても、純粋な者の方が不純な者よりもえらいと信じている誤りだ。

                            122ページ

だからといって、不純であれというのではなく、ただ自分の性格や考えに絶対の正義を感じて自分と異なる行動や言動をする人を排他的に扱う、つまり自分に都合のいいように短絡的に結論付けてしまうのは、いただけない。

 

、ということらしいでやんす。

 

他にもいろいろ話あったんだけど、上のふたつは目からウロコというか、この本読んでよかったなあと思う。
正直、情けないことに、棚からボタモチは許せなかったし、そういった不条理に納得できないということもひとつあって(他にもあるが)会社辞めてしまったけど、その後「俺は仕事にまじめに取り組んでたし、汚いことはしなかった。純粋だ。残った同期は思えば世渡りのうまいやつだったなあ。不純だよ、不純」というようなことを思っていた節がある。
自分のことながら誠に恥ずかしく、心底情けなく、片腹痛いことこのうえない。

思えば学校でもそうだったなあ。
大学受験では「おまえら今のうちから就職のこととか考えて大学選ぶんか。はっ、くだらな。大学行くなら学問を基準にして選べよ、不純だなあ」と思っていたと思い出すし、大学に入ったら入ったでへんにアウトローにかぶれて「おまえら、いかに効率よく単位取れるかってそんなこと考えとんのかいな。資格として教職とるとか、くだらな。卒論も書きやすいテーマとか選びやがって。毎日毎日まじめに通って、実は不まじめなくせして。純粋に知的探求心を持った大学生であれや」などと思っていた。

馬鹿だね、はっきりいって。馬鹿っていうかもう、なんか痛いわ。自分のことながら。
想像力や思いやり、余裕に乏しい人間であった。


なんだか告白・自白・懺悔タイムになってしまうがほとんど自分しか見ないからいいだろう。思うに、高校まではなんとなく勉強ができる自分、いわゆる優等生のような自分に酔っていたみたいなとこがあったんだろうと思う。
そいで、高校から勉強が芳しくなくなり始めて、それまでの自分のプライド・矜持を守るために、自分を庇護して他を、特にうまく器用に立ち回る人種を排他的にみるようになってしまったんだと思う。
うまくいって堅実な道を行く人を、器用に立ち振る舞う人を、どこか冷めた眼で見るようになってしまっていたのだと思う。世の中の主流、常識、良識はまがい物で、純粋なものはその外にあるものだ、と一方的に決めつけ思い込んでいたと思う。
もちろん、僕が非難する物事がそのとおり間違っていることもあっただろう。だけど、その中には正しいことや純粋なものもあったはずだ。そして、僕自身が間違っていて、不純なこと、悪であることもあったはずだ。おそらく僕を含めてみんな、正しく純粋な一面と、間違った不純な一面を持ち合わせているのだろう。
そのことに僕は長らく心の底で気付かずにいた。いてしまった。そんな僕はたぶん不純だった。

情けないことだ。かたじけないことだ、これは。色んな人、物事に対して申し訳ないや。あかんかった。我ながらロクでもない奴だと思う。変わりたい。変わろう。

 

という自省反省に図らずも至ってしまったこの本は、読んで本当によかったと思う。個人的には。
自分の考えや性質、基準を正しい、よいものだと思い込むことなく、他の人や物事を考慮する余裕と想像力を持つこと。そして、世の中は良くも悪くも理不尽で不条理だということ。
ただ、これらがやはり「正しい」のかってそれは分からない。正解や真理というものは分からない。そんなものないかも知れない。

そういうことを考えるのは無駄なのかもしれないが、絶対的な思い込みをすることなく、いろんな考えにふれ、人にふれ、風にふかれることで、精神的な芯というか核のようなものができあがるのかもしれない。

だからやはり社会に、また外に出よう。それで理不尽の波にもまれながら、考えたい。