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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康 「つるつるの壺」

 町田康の本の装丁ってのは、なんというかこう、NHK教育で今もやってる「おはなしのくに」という伽番組のオープニングでひらひら飛んでいた妖精みたいなやつに似ている雰囲気がある。と思うのは僕だけだろうか。どうなんだろうか。一昔まえの「おはなしのくに」のそれで。

つるつるの壺 (講談社文庫)

つるつるの壺 (講談社文庫)

 

その総意はともかくとして、ある時期っつうかなんつうか、同じような雰囲気の絵柄の本が多いだなあ、なんて思ってた今日この頃なんですが、どうやら寺門孝之さんという方が手がけているらしいのでして。おそらく、へらへらぼっちゃん、きれぎれ、屈辱ポンチ、そしてこのつるつるの壺なんかはみんな寺門さんの装丁なんではないか、と思う次第であります。

 

KOH-MACHIDAのエッセイは3冊目だが、幾分毛色が違う印象を受けた。
へらへらぼっちゃんが、まあ日常を書いてるって感じ。
猫にかまけては、まあ猫のことについてって感じ。
で、この本つるつるの壺は、へらへらぼっちゃんよりもやや内面的な感じ。
スピリッツとか信念とかいうと大仰かもわからないが、そういう「僕はこうこうこういう事があってこれについてはこう思うんだよね」というナイーブな事を多く書いている印象を受ける。

 

巻末の方には大昔に紀伊国屋でやった講演会の内容があって、その中で今のロックンロールについてパンクロッカー町田町蔵の思うこと、が述べられており、ほう、となった。
「勝者の傲慢、敗者の堕落」という節。ちょと長い。

 ロックも変わったな、昔日の感があるな、年はとりたくないな、なんてことも思ったのですが、どういうふうに変わったかというと、ロックというのはもともと音楽のジャンルのことではなくて、一つの心の動き、一つの運動の呼び名のようなものです。フォービートは音楽の形式ですが、ロックはそういう形式のことではなく、ただ「反」なのです。反抗、反体制、反権威、反権力、何にでも反をつければいい。反音楽でもいいわけです。それで立派なロックができる。「反」といっているやつは体制に入れてもらっていない人です。体制の中にいる人が「反」といったらクビになりますよね。だから反体制ということは、一言でいうと、負け犬の遠吠え。ということは、負けていなければならない。

 ところがそもそも負け音楽だったロックが、次第に勝ち音楽になってきた。要するに、いろいろな商品を売るための景気づけとして目をつけられ、「何だか知らないけど、ロックというのは若いやつに受けていそうじゃないの、あれ使って」みたいなことを言われて、言われたほうは「なんでわしがあんなオッサンのためにやらにゃあかんねん、でも、なに?お金くれんの?うーん。どうしようかな。それではあまりにも、しかし、んー。ですかあ?」みたいなことになって、みんな商業主義に組み込まれてしまった。では「反」をやめるか。「反」やめて、別の進化したロック、言葉の本来の意味でのプログレッシヴロックというのをやるかというと、あまりやらなかった。なぜかというと、考えるのが面倒くさかったからで、イメージだけを借用するのは楽なので、「反」の形だけ残した。ファッションとしての「反」ですから、実態がありません。形だけ、服装だけ、雰囲気だけ、ムードだけ「反」を残したのです。

                         本文272,3ページ 

 町田さんがパンクロッカーである自分をいう時に、堕落・敗北・悲惨などといった言葉を使って貶めるのには、こういう云われがあるらしい。確かにそうかもしれんなあ。
この町田ロック論を一概に妄信するのも具合が悪いし、僕はロックンローラーでもなく作詞して作曲して人前で歌う、なんてなことはついぞしたことがないのでいわゆる素人・どこぞの馬の骨であるけれども、今の音楽がなんだかおかしいような気がする、ってことは実感としてある。

「メジャーデビューしたら、お前のロックは終わりだよ」って誰が言ったかは覚えてないけどとにかくそんなことを言った人が確か居て、それは町田さんが言うようなことを指してたんですかなあ。

町田さんはセックス・ピストルズに感銘を受けてパンクロックの道に入り込んだらしいが、何がどうしてそこまで魅かれたのか、その経緯もこの本にあった。負け犬であること、それが町田さんにとってとても大切なテーゼというかアンチテーゼというか、とにかく大事な基準としてある。と、かように思った。

だからなんだなあ、おそらく町田さんの書く主人公がみな、堕落していてどこか破綻していて、社会的に明らかに「負け犬」であるというのは。

 

とまあ、そんな感じのことが述べられてて、いちパンクロッカーとして危機を少しく覚えたらしく、ロックとされる歌詞の分析なんてこともやってた。結果、同じような紋切り型の言葉が羅列してあって、ほとんど自分の言葉を持っていない、ということが分かったんだそうな。

この公演の内容は他も実に面白いので、もしドラえもんがいるのであればぜひとも1998年に連れて行ってもらいたいのだが、現実はそううまくいくもんではなく、まだ2017年なんであって、藤子・F・不二雄によるとドラえもんが誕生する2112年まであと85年かかるみたいで、断念せざるを得ない。辛い。ちなみに僕が98年に何をやっていたかと述懐すると、おそらくいたいけなザリガニをスルメで釣ったり鍵盤ハーモニカを吹いたりしていた。北関東の片田舎で。無念。

 

あとおもろい話としては、「へらへらぼっちゃん」のある話にあった、遠い昔住んでいたというボロアパートでの生活のことが書いてあり、茶碗の経緯などもあって、本同士の関連性が見えて、おもしろいことこのうえない。

 

あと、後半は町田康による数々の書評。