読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

僕と姪のグローバリゼーション

よしなし

僕は今、世間でいうところの失職中の身つまり暇を持て余したプー太郎、というわけであって、友人はおろか家族からも「どうせ暇でしょ」と認識されているのであって、暇であるとどういうことになるかといえば、それはもう子守り役、ということになるらしい。

ということでしばしば、姉の娘いわゆる僕にとっての姪の世話というか、遊び相手に選抜されるんだけれども、姪の相手をふんふんするうちにふと疑問に思ったことがある。それというのも、なぜ子どもというのは屁を恐れないのか、ということである。

これどういうことかというと、その字義のとおりなんだが、例えば姪とやたらでかいブロックで家づくりに興じているとする。姪は家を拵えることができないので、もっぱら司令塔、つまりは施工主であって僕はその下請けみたいな感じで「へい、へい」と言いながら家を建てるのであるが、ふと姪の動きがぴたと止まることがある。無表情というかなんといったらよいか定かでない表情で放屁したのち、ふと朗らかな笑顔を作って一言、「ブーしちゃった」。わざわざ事後報告をしてくれるのである。笑顔で、キラキラとして。

 

ここで思うに、幼児には屁=恥ずかしいもの、という図式がまだ構築されていない。しかし、僕には構築されている。価値観の決定的な相違だ、うわあああああああああああああああああああああああ。と慌てるようなことはない、なにせ今は多様な価値観を認め、多文化を許容することを是とするグローバリゼーションの進んだ社会だからね。
ここはひとつ冷静に、僕はあなたの屁への是認観念を理解するように努めてみましょう。

 

ってんで、暇なので「人はいつから屁をなぜ恥ずかしいと思うようになるのか」を何の文献も証左もなく、ただただひとり考えてなにかしらの結論を徒に出してみたい。

まず、この疑問をなんとなく区切ってそれぞれ考える。すなわち、「人」「いつから」「屁」「なぜ恥ずかしいと思うようになるか」というパートね。

 

・「人」
いきなりだが、これをパートに分ける必要があったのだろうか、という第一の関門に勝手に突き当たる。む・・・・・・・・・

まあ、ヒトってことで、他の生物とこう異なるっていうかなんつうか、一線を画す物事のひとつに「感情・情緒・Emotion」やらなんやらを有す、ということが考えられる。これらの作用があるから人は屁に対してなんらかの感情的な判断を下すことになる、つうわけね。ちなみに、プレーリードックをはじめに犬やなんかもオヤジの靴下とかの匂いを嗅いで、「ふげええ」という顔を一人前にすることがあることが方々から報告されているが、これは生命活動によるところの嗅覚という感覚で「好ましくない匂い」を識別しているだけであって、そこに人の持ちうる「恥ずかしい」という感情を持つことはない。多分。

つうことで、まず僕らは人であることによって、屁を恥ずかしいと認識する。

 

・「いつから」
姪は今3歳、僕は25歳である。ということは、3~25歳の間に、「屁=恥ずかしい」の図式を構築することになる。が、いったいそれはいつなんですか。

思うに、これは幼稚園や保育園などに入った頃からなのではないか。すなわち、家族という最小の社会から飛び出すにあたって、まず初めにある社会と自分という存在の融合地点である。そこでは、自分の世界に「赤の他人」という存在が日常茶飯に登場するようになるんである。そして、他人の前で放屁するということに恐怖するようになる。

例えば、ここに砂場で山とトンネルをこさえている園児がふたりいる。名前は浩二とアケミにしよう。浩二とアケミは園児ながらにして、将来を約束するほど仲良しであり、仲睦まじいマセた餓鬼である。そんな浩二とアケミが穴をほりほりしていた。
砂遊びは立ってできるものではなく、自然、しゃがみこむようにして作業しなければならない。するとどうなるかて、人間の身体構造上尻の穴が若干ゆるくなったりする。これは便用をたす姿勢を考えてみても明らかで、俗に「ウンチングスタイル」という、不良・チーマーなどが最も得意とする姿勢である。

浩二とアケミもこのスタイルをすることによって砂遊びに興じていたのであるが、その姿勢も手伝って屁意を催した浩二には「なんだか屁がしたい」とむらむらと生理的な欲求が芽生え、アケミが砂山をこしらえる横で下腹部に力をいれて放屁した。
案の定、臭い。漫画であれば黄褐色の気体が描かれるであろうが、現実には無色の気流である。ものの、屁をしたこと事実は裏返らないので、流体力学の法によって周囲四方に拡散される。
アケミは放屁の音と匂いを敏感に察知し、身の危険を感ずる。そして、「こうじくん、今おならしたでしょ」と問い詰める。浩二は「したよ」とへらへらしている。
「こんな身の危険を感じるような奴と、百歩譲ってそれは仕方ないとしても、それでへらへらしているような奴と将来を約束することはできない」とアケミが思ったかどうかそれはアケミでないと定かでないが多分そんなことを思ったんだろう、アケミは何も言わずに立ちあがってそそくさと砂場を離れ、すべり台に向かっていった。
浩二はなにが起こったか分からない、アケミに話しかけてもけんもほろろにあしらわれるだけ。二人の将来は音を立てて崩れ去ったのである。その後も浩二はアケミの行動と放屁の関連性を汲むことができずに同じような失敗を何度か繰り返したのち、「そうか、放屁は人前でしない方がいいのだな」「僕が放屁をしたらあの娘に笑われた。なんとなくやな感じだ。尊厳がなじられた。ということはプライドがズタズタにされた僕は恥ずかしい」という天啓を授かって、そうしてここにまた屁を恐れる人間がひとり誕生するのである。

 

ということから考えるに、やはり他人の目を気にするようになる、というか他人の存在が顕著になり始めるこの時期に、人は屁を恥ずかしいものと認識するのだろう。
よくよく考えてみれば、他人の目のないところ、すなわち家庭においては人はずいぶんと傍若無人な振る舞いをする。というか、家でないとそういった行いは許されない。父や母、兄弟姉妹などの肉親はもはやこれ、自分と他人の境界があいまいな存在なのであって、そういう存在の前で屁をこいたところで失うものは何もない。だからこそ、そういった存在に囲まれた姪は、今現在は自由闊達に放屁することが可能なんである。

 

・「屁」
なんつうか、まず屁は匂いがよろしくない。よろしくないということはこれ、認識的には毒と同じようなもので、屁をこくとは毒を周囲に撒くことと同義である。たとえ身体に実害がなくとも、「臭い」ということで嗅覚を刺激されるのは、一部の変わった嗜好性を持った人以外はなんとも避けたいものなので、その根源となる人物を警戒し、敬遠するのは至極まっとうな判断である。

それならば、匂いがよろしければ、例えばラベンダーやレモンなどの香りがすればよいかというと、それもまたよろしくない。放屁には「すかし」という少々技術を要するもの以外、音がつきものである。文字にすれば「ぷう」「ぶう」「ぷっ」「ぶっ」「ぷぴい」「ぶぼぼ」など実に多様性に富んでいるが、その音はマヌケというか下品というか、ともかく好ましい、尊敬しちゃう、神々しいなどのイメージからかけ離れる。
というのは、これすでに「そういう音=放屁=恥ずかしい」という図式が構築されているからだと思うが、この放屁の合図も目に見えないものの匂いよりかは幾分強い物理的な証拠となって、人々にインパクトを残す。

例えば、とある小学校のとあるクラスで数人の上履きがなくなる、という事件があった。帰りのホームルームではもちろん犯人探しが始まる。

先生「みんなも知ってると思うが、このクラスで上履きがなくなったという生徒がいる。誰か心当たりがある奴はいないか」
生徒「しーん・・・」
先生「先生な、怒ってるんじゃないんだ。正直に言ってくれればそれでいいんだ。誰か知らないか」
生徒「しーん・・・」
先生「そうか、分かった。それじゃ、みんな目をつぶって」
生徒「しーん・・・(目をつぶる)」
先生「よし、みんな目えつぶったな。上履きのことで何か知ってる人、何も言わなくていいから手を挙げなさい・・・」
生徒「・・・」
生徒「・・・」
生徒「・・・ぷう」

かくなる上は、もはや上履きの犯人さがしどころではない。放屁の犯人さがしで、生徒はおろか先生も「・・ややっ?!」となってしまう。放屁のサウンドはそういう力強さを持っている。場を乱す攻撃力というかなんというか。

ということで、屁はその存在悪の根源である匂いだけでなく、その補強としてのサウンドさえもよろしくないということになって、結果屁は全体的によろしくない、ということになる。

 

・「なぜ恥ずかしいと思うようになるか」

なかなか難しいというか、奥が深い問題である、これは。なぜ屁は恥ずかしいのか。
なんとなれば屁というのは人間の生理的な現象のひとつであって、それはいわば食事、睡眠などと同じジャンルに属する活動である。
それがなぜ、恥ずかしいのか。それは思うに、人間が身体的な反応を「よろしくないもの」と判断するようになってしまったからではなかろうか。

思えば、空腹をおぼえて腹が鳴ったり、眠くなってあくびをしたりすることも、なんとなくよくないものとされるような気がする。少なくとも、褒められたり好ましいものではない。食い意地の張った奴だ、怠惰な奴だ、そういうレッテルが貼られる傾向にある。
身体的な反応とは、いうなればそれは野生の名残、自然に生きる生物であることの証でもある。養老孟司の主張を借りれば、ってこんなのに養老孟司の主張は関係なく氏も「遺憾である」と思うかもしれないが、そうした野生・自然を遠くに追いやり、人間の諸活動はもっぱら意識によってコントロールできるとする現代人の身体へのスタンス、がここに現れているような気もする。のは、多分僕の戯言戯念なんだろうが、そういう感じ。

そんな感じなんだが、これには印象的な話があって、少々民俗学的な話になるが京都に「へひりよめ」という昔話がある。話としては、一人息子が嫁をもらったが、その嫁というのが日に一度大きな放屁をしなくてはならんという嫁さんで、その屁をもってして梨の木になっている梨という梨を落としてこれを売り払って金持ちになった、というもの。そして、この屁をこくためのスペースを設けるようになり、それが「部屋(へや)」と呼ばれるようになった、そうな。そのため、この話は別名「へやのおこり」ともいう。

この家の婆あのセリフがこれである。

嫁「里の母に”よそへ行ったらへをこいたらいかん”と、きつう言われたのでこらえとったら・・・」
婆あ「あほらし。人間だれでもへをこくのや。えんりょせんとこきなはいや。今日はむすこもでかけとることじゃし。さあ、さあ」

         学研まんが まんが日本昔ばなし辞典 100、1ページ

なんとも聖人君子のごとき婆あ。さあ、さあ、と放屁を促せるような人間はそういない。すごい。ある意味尊敬しちゃう。わあわあ。
この「へをこいたらいかん」と里の母がいうのは恥ずかしいとかではなくて、ただ途轍もなく大きいので物が倒れたりして物理的な実害があるから、よしときなさいと言ってるのであって、そのことをまだ知らない婆あも屁に関して恥ずかしいような認識はみられない。
このことから、やはり「屁=恥ずかしい」というのは現代人に特有のものだといえる。

 

 

・結論
ということで色々考えたが、「人はいつから屁をなぜ恥ずかしいと思うようになるのか」は、それは思うに、身体感覚を非常に弱めた現代人が開かれた社会で赤の他人と頻繁に付き合うようになる頃、屁自体がもつ匂いや音といった特性がその存在感が自ずと浮き彫りになるから、という意味の分からないことになった。

人がなぜ屁を恥ずかしがり、恐れるか。これは人はなぜ生きるか、と同じくらいに永遠のテーマなのかもしれない。

 

ということで、なんだかんだで姪は今年の春から幼稚園に行くらしいので、自由闊達に放屁できるのもあとわずかである。今のうちに好きなだけ思うままに放屁の日々を送ってほしい、というのが叔父としての切なる願い。