光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

養老孟司のいくつかの本 「バカの壁」他

2003年。「バカの壁」がブームになって、養老孟司さんが一躍脚光を浴びた年です。多分。
それから13年。遅ればせること甚だしくも、養老孟司さんの本をいくつか読んだ。
「運のつき」→「バカの壁」→「死の壁」→「逆さメガネ」と読み進めてみたんだけども、4冊目の逆さメガネにてようやく、氏の主張の骨格が掴みかけてきた気がするので、記録したい。

                 運のつき (新潮文庫)

                 バカの壁 (新潮新書)

        

                 死の壁 (新潮新書)

                 養老孟司の<逆さメガネ> (PHP新書)

 

 

横に並べたかってんけど、縦にしか並べ慣れないこの辛さ。世知辛いのお。
逆さメガネがちょっとズレて見えるのは、周囲が白いからでやんす。

 

 

簡単にそれぞれあらましをば。

・運のつき
最初に読んだからまずはこれから、と思ったけど、どうもそうはいきにくい。てのは、この本はこれまでの著作の集大成ではまさかないんだろうけど、主張してきたいくつかの事柄を複合させてできている。そんな感じがする。
特徴といえば、人間の終着点から出発点、つまり死から生へと話を展開させていくところでしょうか。このことは養老さんの「人間にとって確かなものは死のみである」という主張から、その唯一の確かなものからスタートすることに意味があるんだろうと思う。
内容としては、氏の生まれ・育ち、助手・助教・教授時代の逸話が心に留まる。それらは日本が対外戦争と学生闘争という争いの真っただ中にあったわけで、養老さんはその世間の大きな流れに翻弄されざるを得なかった。そして、そのことが養老さんの人生を大きく変え、今こうした考えを持つに至った。
そんなことがなんとなく感じられた。

 

バカの壁
言わずと知れた本。とにかく大人が騒いでいたことは覚えている。
帯の「話せばわかる、なんて大うそ!」というコピーよろしく、「分かる」「分かり合える」と安易に思うことの危うさを主張したのが前半部。4冊読んだ今では、後半の情報・個人の変・不変性や無意識・身体・共同体などの話が養老さんの考えの核だと感じる。

 

死の壁
養老さんが唯一確信している「死」という結末。思わず目を背けてしまいがちな死というものが、何故忌避されるのか、そしてそれは社会にどう影響しているのかを自身の経験から解きほぐして考える。医学者、それも解剖医だったということで果てしなくなるくらいに死について考えてきたんだろうな、と思わざるを得ない。
エリートの今昔相違についての見解が面白い。

 

養老孟司の<逆さメガネ>
主に子供教育の話。様々な教育現場の崩壊が叫ばれて久しいですが、そうした諸々の原因は「日本全体の都市化」、「身体感覚の消失」、そしてその他色々な錯覚や思い込みにある、とそういう話だと感じました。ここでも変・不変性の誤解や身体などの養老さんの見解が骨になっています。

 

 

 

4冊しか読んでないのはアレなんだけども、4冊目にして、とりあえず強く感じられたことが一つある。それは逆さメガネの巻末にあった養老さんの言葉。

あまり一つの見方でこり固まってしまうと危険だということです。ときどき、私のように「逆さメガネ」で見る視点を持ってくださいよ。

                            198ページ

これだ、たぶん。「たまには立場を変えて物事を考えてみてください」。つまりは、そういうことだろう。

今回のどの本でも出てきたと記憶しているが、一元論主義・原理主義という立場を養老さんは色んな問題の原因として挙げる。一神教なんかにも例が出されてるけど、要は「自分の考えはすべて正しい。異なる考えはすべて間違いだ。こら、俺の言うとおりにしろ。」という立場。
養老さんはこの一元論をけちょんけちょんにする。けちょんけちょんに至る説明は自身の色んな経験や、過去の史実の例、その他の豊富な知識で展開され、納得できる。確かにそうだと思ってしまう(たまによく分からないのもあったが)。でも、「ほれ見ろ、俺のいう事は正しい。俺の言うとおりにしろ」とは言わない。
「僕はこう思うけど、それで今後は具体的にどうしたらいいのか、それは僕も分からないよ。それは自分で考えてください」というスタンスである。養老さんは断定しない、というか「僕の言ってることは間違ってる可能性もあります」って言ってしまっている。

 

一見不親切ちゅうか、言いたいこと言っただけ感もあるかもしれないが、このことこそが養老さんが大切だと説く二元論で考える種になるんだろう、と感じる。
二元論とは、異なる立場が存在することを前提とすること、といったようなもんだろうか。立場が増えていけば多元論となる・・・のかね。
二元論で考えるためには、違う立場すなはち自分では分からないの立場を想像するしかないからね。自分で考えるしかない。分からないものを想像すんだから、そりゃ分からんわ。ただ、その姿勢が大切なんだっていう主張だ、たぶん。

 

思えば養老さんはよく、この二元論で語っていた。
「意識」と「身体」。「都市」と「自然」。「大人」と「子ども」。「生」と「死」。
今の世の中は、「意識」「都市」「大人」「生」が中心であり、一元論的であるがゆえに「身体」「自然」「子ども」「死」にフタがされている、という。

一元的になると、どうしても何かが歪む。それは子供かもしれないし、家庭かもしれないし、学校・会社かもしれない。誰にとっても確かなものは「死」だけで、あとは往々にしてあやふやではっきり言って分からないものばかりだから。

だからこそ、人は分からないものは分からないものとして謙虚に想像することに努めるのが大事なのかもしれない。
そんな感じだなあ。

 

そんな感じですが、4冊読んでの感想はなんとも大味なものになりまして。
そのうち各々書き残したい。

 

 

 

そんでもって、余談というかおまけというか、この二元論で考えることを人生で一番重視しなくてはならないのはどこか、って考えてみるとそれずばり、結婚の時なんではなかろか。
戦略的な結婚でもない限り、多くの結婚した人はまあそれから多くの時間を共にするわけでしょう。てことは、いろんな問題が起こる。養老さんの見解からすれば、「男女は生物学的に異なる生き物だから当たり前」。

例えば、買い物にしろ、子どもの教育にしろ、休みの日の使い方にしろ、テレビ番組にしろ、猫か犬かにしろ、たぶん意見が分かれることがたくさんあるでしょう。ミシシッピ川の支流のように。
どちらか一方の主張に従ってばかりいたら、ストレス・不満という暗黒物質がたまりにたまって、やがて離婚・不倫・バトルという形で噴出してくることだらう。

だから、いざ結婚する時の判断材料として「話し合える土壌を持っていること」はまず大切だよね、っておじさんは思う。
顔、趣味特技、職業、性格、乳の大きさ、初めて会った気がしないあの感じ、などももちろん大切ではあるが、やっぱり何かあった時に話をしようという基本体制を持っているかどうか。これが大切だと思うよ、と婚活中の友人に話したい。
そしてそのために、まず自分がそうした土壌をもつことが求められるので、色々考えて一石二鳥だい。