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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

今度こそ、町田康「猫にかまけて」

 ふほ。
記念すべき我が25回目のクリスマスは両親、姉夫婦とその娘と過ごしますた。
姪にはサンタさんが玩具と本を届けてくれたようです。僕には何もきませんでした。木の枝すらも。確かに相当業の深い一年でありました・・・

来年はサンタさんから何かしらもらえるように、善人となりて社会に貢献する人材でありたいと願うばかりです。候。

猫にかまけて (講談社文庫)

猫にかまけて (講談社文庫)

 

 ちうわけで、以前たとえ話で終始してしまった町田康の「猫にかまけて」。

この本がなぜ強くオススメできるか、ちう話でした。
なんでか。それはもう猫を扱っているから、としか言いようがない。
ていうか、猫に限らず、動物ものは守備範囲が広い読み物だと思うからでありまして。個人的に。

というのもつまり、猫あるいは動物というジャンルは、猫あるいは動物嫌いの人を除いた多くの人にとって、比較的好ましいジャンルであると思えるのです。

 

例えば高1かそこらで教わるベン図というもので示すと、

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こういう感じになる。
日々の生活の中で、僕は動物・アニマルに対する人の敷居の低さを感じるわけでありまして。
たとえば、動物を主人公にしたテレビ番組がたくさんある。感動もの、ドキュメンタリもの、ホームビデオもの。動物園ならいざ知らず、道端で見かける犬猫やそのほかの動物を愛でる。そして、目的は様々なれども人間の連れ合いとして「ペット」や「パートナー」として生活を共にする。
これはつまり、動物・アニマルを好ましいものとして多くの人間が広く受け止めているちゅうことなのです。

そういうことから、この本がオススメできるというわけなんですね。

 

本題

前置きがまたしても長くなりましたが、内容をば。

ココア、ゲンゾー、ヘッケ、ナナ(奈奈)という4匹の猫の生態を、飼い主である町田康が面白おかしくまとめたエッセイです。

まえがきとしては、

これから自分は、この場を借り、ココアとゲンゾー、そしてこれまで自分が交際してきた猫達の行状、交友をここに記すことによって、果たしてココア、ゲンゾーがファンシーか否かについての読者諸賢の判断を仰ぎたいと思う。

                           本文13ページ

読了後。
筆者の意思を尊重してファンシーか否かの判断を下さなければならなくなった僕は悩むことなく、「ファンシー」の称号を彼・彼女らに付与せねばならなくなった。
なぜなら、ココアならびに他の猫たちはファンシーそのものだったからね。

 

ということで、ファンシーの一例を本の中から紹介したい。
エントリーナンバー1:ココア

ココアは自分やゲンゾーのような平民と違って、気位のきわめて高い猫である。例えばココアは自分の腹の上に乗ってまどろむのを好むが、なにもこれは自分が好きだとかそういうことではなく、単純に自分の腹の温度がまどろむのにちょうどいいからであって、自分という人間については単なる温かい台だとしか思っていない。

                           本文59ページ

うーむ、ファンシー。そして、気位が高いために町田の腹の塩梅(座り心地としての)が悪いと、抗議する(おそらく鳴くということだろう)。
猫とは基本的に自分本位・気ままな生き物というイメージが強いが、町田によればココアのそれは群を抜いている、ということらしい。

「あなたいったいなにを考えているの?わたしが腹の上でまどろんでいるのよ。それをあなたがごそごそ動いたりそんなごわごわの服を着てたんじゃ意味ないじゃない?あなたいったいなんのために生きてるの?私を腹の上に載せるためでしょ?それをごそごそ動いたりするんだったらあなたなんて生きてる意味ないじゃない。まったく呆れ果ててものもいえない。もう馬鹿馬鹿しくてこんな腹には乗ってられない」

                           本文60ページ

こんな具合だから、町田もそういうものかと思ってつい身を低くしてしまうようで、猫用の小窓を造ったりした時は、

「まあ、あのここに透明小窓を拵えたんで、あの、よかったらっていうか、一度、試してもらえないかなあ」

                           本文66ページ

と非常にかしこまった態度を取っている。
この町田とココアのやり取りを町田の文面越しに想像すると、その姿はきわめてファンシー。ファンシー以外の何ものでもない。
そしてココアが人間語をしゃべるわけではないから、これすべて町田の想像という名の妄想、という点もファンシーである。

 

エントリーナンバー2:ゲンゾー

そんな威風堂々と我が道を邁進するココアと違って、ゲンゾーは卑屈でちょっと嫌味な猫であるらしいことが詳述されているのが、「ゲンゾーの埋め飯」というお話。ゲンゾーはココアほどに町田に対して立場の上下を主張しない猫だが、食事の際には底意地の悪さを発揮するという話である。
気に食わない食事が出てきて、もっとうまいものを食わせろと各猫が主張するシーン。

しかし、同じ贅沢を言うのでもココアとゲンゾーではやり方が違っていて、ココアの場合は、自分が用意した桶に鼻を突っ込むや、無言で桶の前を離れ、自分のところに真っ直ぐ歩いてくると、真っ赤な口を開け自分の目を見て、一言
「ぎゃあ」
と叫ぶ。翻訳すると、「いま桶に入っている飯はまずいからこれを捨てて、もっと旨い飯と替えろ」と言っているわけである。まあ我が儘ではあるが直接的で回りくどくなく、分かり易い。双方にとって時間の無駄がない。

しかるにゲンゾーの場合は、そうしてもともと飯に関して卑屈なだけに回りくどいというか、やり口が嫌味で、桶に鼻を突っ込み、まずそうだ、と思ったゲンゾーは自分が見ているのを充分意識して、というのはそれが証拠にときおりこちらをちらちらみながら、桶の廻りの床を手で擦る。すなわちこれは地面を掘って桶を埋めているつもりなのであり、つまり彼がなにがいいたいかというと、
「飯がまずいからいまはこれを食べないけれども、マチダさんは吝嗇だからもしかしたら別の飯を貰えないかも知れないからそのときはこれを食べようと思うのだけれども、でもこれをこのまま放置した場合、ココアやマチダさんが来て食っちゃうかも知れないから埋めて隠しておいて後で掘って食おう」
ということを言っているのである。 

                         本文77,8ページ

飼い猫を観察していると、ここまで違いが現れるもんなのか、とおじさんはつい感心してしまうね。
飯がまずいのだけれども飼い主にはそう言えず、どことなくもじもじしてしまうゲンゾー。町田は卑屈・嫌味と評するけれども、なんともファンシーではあるまいかよ。
そして例に漏れず、こうしたゲンゾーとのやり取りもマチダさんの観察眼・想像力・妄想力の賜物なんである。

 

とまあこな感じで全部書くのもあれなので、ヘッケと奈奈のファンシー具合に関しては割愛するが、同じような感じでファンシー。

 

と、ここまで振り返ってみて思うことがひとつ。
町田康は「飼い猫がファンシーかどうかの判断を読者に仰ぐ」としていたが、もしかしたら一番のファンシーな存在とは町田康その人自身ではないか?

「きれいなものをきれいだと思えるのは、その人の心がきれいだからです」と金八か誰かが言っていたような気もする年の瀬ですが、その金八理論にあてはめると、町田康が己のファンシーな妄想でファンシーな飼い猫をよりファンシーな次元に昇華させているということになる。
というのも、そもそも「ファンシーかどうか」なんて、ファンシーだと思っていなければ尋ねないはずだもの。ね。
よって、飼い猫をファンシーと思う町田康は、実はさらなるファンシーさを秘めた人物ということになる。

てことは、金八理論に従えば、その町田と猫の様子を見て「ファンシーだなあ」と思ってしまった僕もファンシーな人間ということに必然的になってしまう。自分がファンシーだとは、ついぞ考えたことがなかった。そう、俺はファンシー。


まあそれはどうでもいいことで、つまりこの本を四則演算で表すと、
「ファンシー作家・町田康×ファンシーな飼い猫たち=完全無欠のファンシー猫エッセイ」
となるちうことです。ここまでファンシーさを追求したエッセイがあったでしょうか。

町田康は猫に関するエッセイを他にもたくさん出しているようですが、この「猫にかまけて」はその中でも随一みたいですね。

 

 

と、かようにファンシーな内容なんですが、猫と暮らす上での宿命のようなものもリアルに書いています。
一般的に、猫の寿命は人間よりも短い。町田康は本の中で、ココアとヘッケを亡くしてしまうのです。

町田康は猫たちを「1匹、2匹」と数えることに違和感があるらしく、人間の家族のように接するそうで。
だからといっちゃなんですが、ココアとヘッケの命が危なくなった時の町田康と奥さんの対応や考えることは胸に迫るものがありました。
動物を飼うという事は、どういう事なのか。

これは猫に限らず、犬や他の動物と暮らす人にも通じることでした。
そういった意味でも、幅広くおすすめできると思います。

 

町田節でつづられるファンシーな猫との日々と、人間という動物と人間以外の動物が共に生きること。そんなことを、ユーモラスかつ真摯に語りかけてくれる一冊でした。