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暇人のイマジン

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

西加奈子 「円卓」

書評 西加奈子

 

円卓 (文春文庫)

円卓 (文春文庫)

 

 

まずは表紙から。
小学生低学年と思しきチビッ子どもが水場にわらついている。
水道ではなさそうだし、何かをのぞき込んでいる様子からは、なにかしらの生物たとえば金魚やナマコかなんかをいじる自然教室っぽい雰囲気がぷんぷん。

結局、何をしているかはよくわからん表紙ですが、小学生低学年の元気さとかそういうのは伝わってくる。小学生を主人公にした作品としては、ええやんすてきやん、てな感じぃ。

 

<あらすじ>

公団住宅で三つ子の姉と、両親、祖父母に愛されて暮らす「こっこ」こと渦原琴子は、口が悪く、偏屈で硬派な、孤独に憧れる小学三年生。こっこの日常は、不満と問題と驚きと発見に満ちている。世間の価値観に立ち止まり、悩み考え成長する姿を、活きのいい言葉でユーモラスに温かく描く。光溢れる感動傑作。

                         本書紹介より引用

 

突然内容とは関係ないのですが、表紙見開きの作者紹介コーナーがまずおもろい。

西加奈子 1977年テヘラン生まれ。カイロ、大阪で育つ。」
あれま。おもろいっていっても、あははっと笑い転げるわけではないのですが、うおまじか興味深いな。という感じ。
イラン→エジプト→日本という類まれなる変遷を経たそうですが、物心がついた頃は専ら大阪にいたとのことで、関西色がだいぶ濃いイラン生まれの大阪のおばちゃんとなったみたいです。

 

そんな西加奈子の「円卓」を読んで少々思ったことをば。

まず、登場人物のセリフが活き活きとしているなあ、て。
関西が舞台ということで、みんな関西弁を使うんですが、読んでいてまるで直に聞こえてくるような、というと過言かもしれぬが、とにかくセリフのテンポが心地よい。
マンダム。

いや、まあれっきとした関西人の西加奈子が自身の言葉を登場人物を介して発しているわけだから、そこに関西弁の趣というか、らしさといったものはあるのが自然なのかもしれぬが、ともかく色々ひっくるめてセリフを追いやすい。
セリフを追いやすいということはこれ、すなはち読みやすいちうことです。

 

 

そして印象的なのは、ぽっさん。
他の登場人物に本名があり、あだ名がある場合はその説明などもあるのに対し、ぽっさんに関しては何の説明もない。ぽっさんはぽっさんであり、それ以上でも以下でもない、というのがミソ。おそらく、当たり前のようにある存在なのだと思う。

そんで、このぽっさんという小学生がこらまた聡明なチビッ子で、おじさんは感心してしまうのよ。
中学生はイキがる生き物である。
大人の階段を登り始め、むくむくと自我が芽生えるこの年頃の男女というのは、何かにつけて自己顕示に溺れるようになりがちであるが、作中の中学生も例外ではない。
そんな中学生を見ながらぽっさんは琴子に語る。ノボセイというのは、中学校の略称。

「こ、ことこ。の、ノボセイ行ってな、い、いきって、派手な靴下とか、や、やかましいゴムとか、に、手出すのんは、や、やめとけよ。お、大人になってな、し、写真み、見たらな、絶対に、ここ、後悔するからの。」
こっこは、それを大切な格言として、胸にしまっておいた。

「こ、個性いうもんは、も、目的にしたら、あかんのや。」
ときどき、ぽっさんが神様に見える。

                           本文51ページ


おそらく「個性ってのは、本人が何かに夢中になってたり、気づかないうちにそういう雰囲気とかオーラみたいなもんが勝手に溢れだしたものをいうのだよ、琴子さんや。だから、個性を持ちたい、と願って手っ取り早く他と差別化できるような容姿をしてみても、それは本物の個性にはならんのだよ。個性は身に付けるものではないんだ」
みたいなことを後に続けたいのだろうと思う。

個性というものは、目的にしたらあかんのである。
・・・果たして、そんなことを悟れる小3がこの世にいるだろうか。末恐ろしいもんよ、ぽっさん。

 

ぽっさんはなぜこんなにも聡明なのか。想像の域を脱しないが、おそらくこういうことだろうと考える。
ぽっさんのセリフがスムーズでないのは、僕がタイプミスしたのではなく、ぽっさんがそういう風に話すから。そう、ぽっさんは吃音症なのだ。
吃音症といえば、重松清が思い浮かぶ。重松清は自らのこの症状にかなり悩んだらしく、吃音に苦しむ主人公を描いた作品もある(「きよしこ」という本)。

しかし、本作に描かれる吃音者・ぽっさんの振る舞いには、そういった自らのハンディに対する物憂げな描写は一切ない。
かといって、それに全く鈍感だったわけではないだろう。
何か変わったものやことがあれば、槍を片手に小突きまくるような小学生の心理と行動を考慮すると、ぽっさんは自らが吃音であるということで傷ついた事もあったはずだ。

にも拘らず、ぽっさんが明るく楽しく学校生活を送っているという事は、それらの苦難を乗り越えたから、ということになる。
とすると、彼の聡明さにも頷ける。おそらく、他の人が当たり前のようにできることができないその現実に対峙することが多かった彼は、思ったことをスムーズに口にできないということもあって、思索にふけることが多くなり、思慮深い子供になったのだろう。
そして、様々なことに思いを巡らすことによって、物事を表面的に捉えるのではなく、その核を見出すようになり、吃音という一般的にハンディと捉えられるものも自分の「個性」と位置づけるに至ったのだろう。

 

涙の数だけ強くなれるよ、と云ったのは岡本真夜だったが、悲しみや痛みを経験すると人は人に対して寛容に、そして優しくなる。
ゆえに、ぽっさんの吃音や香田めぐみの眼帯、朴くんの不整脈に憧れを持つ琴子に対してもヒステリックになることなく、諭すことができるのである。

 

琴子と石太が夕食後にぽっさんに会いに行くシーンは、ひとつのハイライト。
琴子の新しい家族が増えることを他の家族のように素直に喜べない事、他人のハンディに憧れをもつ事を通して、琴子とぽっさんが考えを巡らせる。
あらゆる物事に対し、どのように考え、どのように向き合うのか、それは自分の自由だけれども、そのことの責任を自分で持つこと。

なんとも示唆的なエピソードです。

とにもかくにも、ぽっさんすげえ。

 

 

全体として、誰かが死んだりどっか遠くに行ったりと、何かしら大きな事件が起きるわけでもなく、淡々とどこにでもあるような日常が流れていくだけなんだけれども、どこか刻みつけるようなシャープさが時折りある。

それはセリフやぽっさんのような登場人物によるものなのかもしれないが、主人公である琴子をはじめとした小学生の世界観みたいなものが特によく書かれているからかもしれない。
段々と心も体も、少年少女のそれではなくなっていく敏感な年ごろの感じ方や変化といったものが、すごく微細に描かれている。
ちうことは、誰しもが通ってきたような、それでいて今では忘れてしまっているような道を、ありありと再現しているという事なんじゃないか。
「ああ、そうそう。こんな感じだった」みたいな。

消えかかった記憶を呼び戻し、ふれること。ある意味、ノスタルジックな行為。

西加奈子の、というかこの作品の心地よさは、たぶんそこにある。