光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康 「夫婦茶碗」

ふぉふぉ。

夫婦茶碗 (新潮文庫)

夫婦茶碗 (新潮文庫)

 

 表紙。
パッと見、白いバラかな、と思って見ると知らん顔。なんとも言い難い、ちょっと不気味な表紙。

中身は表題の「夫婦茶碗」と、「人間の屑」の2収録。
ページ数は少ないが、ほとんど改行がなかったりで文量としてはなかなかのもの。
今回もいろんな些事事をミンチのようにこねくり回している。ミンチミンチ。

 

 <あらすじ>

夫婦茶碗
金もない、仕事もない。ってんで男は詮方なく仕事を探し、内装業や冷蔵庫の卵並べ業に精を出す。そして紆余曲折の末に、「小熊のゾルバ」という絵本の作家を目指すという波乱万丈ぶり。奥さんとのメルヘンな、そしてうるおいのある生活を目指して、今日も男は真面目にのんべんだらりと堕落する。

・人間の屑
働くこともなく野良猫の観察に日々を費やす男が、二転三転浮世に身をやつしては金や女に溺れていく。行き詰まっては別の道へ、行き詰まってはまた別の道へ、と行きあたりばったりに生きる男の最後は狂気の極みであった。

 

どちらの主人公も極めて自堕落であり、人生の堅実な設計・計画というものもなく、日に日に酒を飲み煙草を喫み、妄想に生きる。ぶっちゃけ、甲斐性というものから光年も離れたような存在である。世間においては、このような人間は「うつけもの」として認定され、冷たい視線を一身に浴びる運命にある。
にも拘わらず、どこか憎めないのはなぜか。おもろいと思ってしまうからだね。
おもろいと思ってしまうのはなぜか。町田康の手にかかっているからか。

 

そんなわけで全体的におもろかったんですが、全体を焦点を当てると途方もなく、これ以上僕は途方に暮れたくないので、部分的に焦点を当てます。ナウく言うと、クローズアップ。

 

夫婦茶碗

まず読者(あるいはわし)の心をつかんで離さないのは、「鶏卵の問題である。」という一文からはじまる「冷蔵庫の卵並べ業」の語り
どこの家にもあるであろう、鶏卵。その使用手順とそこにあるルールがあたかも論理的に構築される。しかし夫の努力むなしく、その法則を無視する妻。
その攻防がファニー。

理路整然と説明するとおもろくなくなってしまうので、詳しいところはぜひとも実際に読まないとおもろさが分からないところ。この話に限った話じゃないけども。

 

町田康はこういう、普通であれば見過ごす、というか見過ごすもなにもなく注視しない事柄に着目して、そこにもっともな理由・背景や理屈をつけるとこがある気がするんだな。無益・無意味の事柄に、何かしらの意味を見出す、あるいはそのまま無益・無意味のままにしておく。
それが実に美しい、町田康

小熊のゾルバの話、にしてもそうだなあ。
なぜ絵本作家を目指すことになったか、ゾルバの話とはどんなか、みたいなのは町田康の語りで終始自己完結しているので、読者としてはその町田康が紡ぎだす理論にうんうん頷くしかない。
いや、読者はもともと読んでうんうん頷くしかないんだけども。読書というものがそもそも、誰かが一方的に書いたものを一方的に読むという行為なんだけれども。

 

この事に関しては、筒井康隆が書いている解説にそれらしい解があった。

さて、高度に屈折し転回し続ける知性からは、思考実験というものが生まれる。本書の「夫婦茶碗」は知的な思考実験の最たるものであり、「夫婦茶碗」全体は、自分がどれだけバカになりきれるかを追求するという思考実験であり、ここにおける金や職業についての考察は、自分にどれだけバカなことが考えられるかという思考実験であり、冷蔵庫の中の卵の並べ方はどこまでつまらぬことにこだわれるかという思考実験であり、童話「小熊のゾルバ」はどこまで固定観念に縛られてみせることができるかという思考実験である。

                        本書218ページより

これで僕はなんだか得心した。ああ、なーる。思考実験か。
どこまで自分が想像できるか、ちうね。

 

浅はかな持論を展開して考えてみると、小説というものはそもそもが想像の産物であって、そうでなかったらそれはノンフィクション、あるいは半フィクションみたいなものになってしまうんだろうが、まあとどのつまり、町田康の思考実験というものは想像の延長線上にあるものなのだと思う。
延長線上とするのは、思考実験というのは想像したものをそのまま置くだけでは実験に成り得ず、一定の理論や仮定を加味することで想像は思考実験に昇華される、ということなのであって、ゆえに筒井氏がいう「高度に屈折し転回し続ける」ということなのだろう。多分。

 

何を言って書いているのか自分でもよく分からなくなってきたが、想像に論理・仮定を加味することで、想像を想像の域から脱しせしめ、一種の実験へと昇華させる、この一点に町田康という作家の深みがあるのかもしれない。
ちゅうことを筒井氏の解説を読んで思った。おもた。

だから、一息で吹き飛ぶようなくだらない事であっても、そこに知的好奇心というか「くだらない」の一言では片付けられない何か、があるのかもしれない。


うまく説明できないんですが、この解説読むと、町田康の惹きつけるモノがなんなのかが腑に落ちる。評論家、というか筒井康隆すげえ。

 

最後、茶碗に茶柱は立ったのだろうか。まあ、立とうと立たなかろうと、この話はハッピーエンドな気がする。珍しく。

 

・人間の屑

屑や、こいつは。表題通りで清々しい。でも、どこか憎み切れないんだけどもね。
小松と子供作って、小松と子供を捨てて、ミオとくっついてまた子供作っちゃうとこはいただけなかったが、全体的にはいつもの感じの主人公。

 

ファニーポイントとしては、久米夫とバンドやったり演劇はじめるところ。
何から何までてきとーに事を進めるが、意外とうまくいったり案の定いかなかったりする。

ていうか、本作品に限らず、よくパンクロッカーや演劇をやる人が出てくるけど、これはやっぱり作者本人の影響が多分にあるんだろうな。ね。

 

あと、だいぶ長いセリフなのだが、話の半分以上はこのひとつのセリフに集約されている。

「芝居やったりね、いわゆる、芝居の革命、っていうか芸術運動ね、テーマ的には、エロス、エロスだよね、あとまあ串カツ、っていうか、食の問題ね、新宿でやったですよ。すっげぇ評判で、まあ新聞とか載ったけどね、演劇界に期待の新星現る、って感じで。あとバンドだな、音楽。これも評判になって各社争奪戦になったけどね、まあ、会社の連中ってのは、しょせん商業主義で、ポップな曲書け、とか、うるせぇんだよね、いわゆる、売れ線っていうか、さ。で、楽屋なんかも、代理店の連中とか、後、芸能界っていうかさ、女優とか、そういう連中がうろつきだして、俄然、俺は嫌になってね、俺、芸術だから。で、野生生物の研究者に俺はなったんだよ。フィールドワークやってね、そしたら、俺のフィールドで開発事業が始まって、自然環境は滅茶苦茶だよ。それでやむなく、研究は一時中断して。惜しかったんだけどね、もうちょっとでまとまるところだったんだけど。まあ、そんなことやってたんですよ。後、これは個人的な趣味なんだけど、調理の研究はずっとやってたけどね。まあ、そんな感じで、で、とりあえず、あんたのことも心配だったし、まあ、芸術や学問も大事だけど、親子の情愛、っていうかね、そういうことも大事だし。あっ、まあ、それを脚本にしてもいいしね、みんな俺の復帰を待ってるしね、演劇界は。あ、いいな。いいな。親子の情愛。書こうかな。まあ、それはいずれ落ちついたら、ってことで、まあ、そういうことで、とりあえず帰ってきたんだけどね、まあ、じゃあ帰ろうか、って感じで、で、こいつがさあ、ガキできた、っていうし。あっ、こいつミオってんだけどね」

                       本文178、9ページより 

 なんともまあ、なっがいセリフである。長すぎて、むしろ現実味がある感がある感があるね。東京でフラフラした挙句、女の子妊娠させて実家に帰ってきたわけだから。
読点、句読点の打ち方が独特あるいは不可解もしくは不気味であるが、これが町田康の醍醐味でもある。このセリフはここまでの話を読んでいると、主人公の言い回しが何を指すかが分かって愉快なパートになる。

芝居と串カツの関連性とか、野生生物の研究=野良猫の観察とか。

 

 

実家に帰って、うどん・串カツ・鉄板焼きの「ミオちゃん」て店を始めたところがピークだった。
そこからの転落振りは、この主人公・清十郎さんの業の深さたるゆえんである。
最後は、ヤクザに返り討ちにされてよくて半殺し、いって全殺しされるんだろうな・・・。物騒な終わり方であったが、筒井氏のいうように狂気を極めた締めくくりだった。

 

読了後、主人公のことを考えてみたが、つくづく人間の屑という表題にふさわしいやつだった。清十郎さん。
ただ、どこまでも屑であっても小説の中での屑っぷりなのだから、まだ救いがある。何に対する救いかはわからんが。

そういう意味では、人間の屑・清十郎さんは小説の中でのみ存在を許されるということで、換言すれば町田康は小説の中だけで存在することを許される人間を生み出したちゅうことになり、町田康が小説というものの虚構性を最大限活用した作品である、ともいえる。

 

そな感じ。