光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康と、その本「浄土」

今、ひりひりとマイムーブとなっているのが町田康という作家。
そして今日読んだのが「浄土」という短編集。

 

浄土 (講談社文庫)

浄土 (講談社文庫)

 

 

まず、こともあろうか本の取り扱いに困った。

表紙には、能面っぽい天狗の面をつけた男か女かもわからん人と思しきものが立っている。その佇まいは気味が悪く、来月に3歳となる姪がこの表紙を見たら泣いてしまうんじゃないか、と叔父としての気遣いを見せ、裏返して本を置くわたし。
するとどうなるかて、姪の教育上よろしくない。
というのも、裏の本紹介文に「フェラチオ」という卑猥な単語があるからであり、3歳の幼児にこの単語はまだ早いのはもちろん、母や姉の眼が痛い、という状況に陥る。

このように、表紙から色々と語ることのできるほど、濃い本を書くのが町田康という作家なのです。

 

中身はもっとすごい。

最近なにかしらのきっかけで知った作家さんですが、この人ほど唯一無二性、ユニーク性を備えた作家は未だかつて出会ったことがありませんでした。この人の特筆すべき点は星の数ほどあるんだろうけど、特に興味が湧いて仕方ないのは彼の文体。

例えば、「あぱぱ踊り」という話の出だし。

夏であった。秋であった。どっちや?秋であった。風が涼しいなあ。首筋が寒いなあ。多くの人がたくさんの人が、どっちや?多くの人がリストラの恐怖に怯えつつ往来を寂しそうに歩いていた。往来?どんな往来?場末のような往来であった。

                           本文91ページ

どっちや、ってなんやねん、それ。突然始まる自問自答の嵐。
こんなこと、許されるんだろうか、小説として。というのが初めに目にした時の率直な感想。
いや、小説のルールなんて別段明文化もされてないし、むしろ不文律みたいなものもあるのかもしれないけど、とにかく常軌を逸しているのは間違いない。いや、常軌を逸するという考えは、むしろ常識の檻に閉じこもった側からの意見であって、そもそも小説というものの創造性なんたらとかはこの人のように自由奔放なのかもしれない、とまで思えてしまう。

 

とにかく、小中学校の作文としては絶対に許されないであろう書き方で、ほぼ全ての物語が語られるのよね。

そもそも日本語というものが、そこまで厳格に文法規定がされた言語ではないらしいので、どんな書き方でもいいのかもしれない。でも、それぞれが好きにフィーリングで書いてたら、意思疎通がスムーズでない。それで便宜的にみなが分かりやすいようにルールっぽいものを設けたのが、今の日本語であり、文章の書き方。ということだと思われる。

そこへいくと町田康、この人の文章はそういったルールをところどころ無視しているような感が否めない。
ところが不思議なことに、意味が読み取れないわけでもなく、むしろ独特のリズムがあって読みやすかったりする。

 

町田康という人

すごい。感動してしまった。こんなに自由に文章を操る作家がいる。
そのすごさは僕は言葉でうまく説明できないのがもどかしいところなんだけども、とにかく「読めばわかる」という、直観に訴える表現をする数少ない作家さん。

 

エッセイを読んでみると、ほーんなるほど確かに、と思うこと。こういってはなんだが町田康は、実にだらけていて、色々と些事事をこねくり回して、ひたすらに酒を飲み、猫ときゃあきゃあやってのらりくらりとしている。らしい。そういった雰囲気が文章を通してヒシヒシと伝わってくる。
しかし、それでいて言っていることは中身がないわけでもなく、些事事をここまで彩り豊かに描けることに尊敬の念すら抱く。

小説の主人公も、基本的にだらしがないというか、どこか抜けている感じ。変なこだわりを持っていて、思弁的。おそらく、自分をかなりの度合いでモチーフにしているんではないか、とさえ思える。
でも、その姿にはどこまでも人間味というか、不器用に富んでいるというか、一筋縄ではいかない人間性の実態みたいなものがあって、そこはかとない魅力がある。

そんな町田康の文章を読んでいると、自然と笑えてくる。多くの人が町田康のレビューで「声に出して笑った」「電車の中では読まない方がいい」と書いているように、数少ない笑えてしまえる小説なのです。マーベラス
この笑えるポイントというのは、それこそ人それぞれだけれども、はまると心底はまる。

 

そな感じで奔放なお人柄なんですが、その実かなり深く思索する人のよう。作家の読書道というサイトでは、かなりの町田哲学に触れることができ、そのギャップによる魅力を感じてやみません。

作家の読書道:第52回 町田 康

 

「浄土」

そんな町田の「浄土」です。7編からなる短編集。短編集なのでどこをどうまとめたらいいかよく分からんのですが、全体的に暗い話が多かった。ハッピーエンドではないなにかしら。
他の作品もハッピーエンド!わあい!という結末を迎えることは少ない感じがするんですが、「浄土」はその中でも暗澹としたものが残る印象。

 

「犬死」
さんざんなことが起こる男がジョワンナ先生という占い師に将来のことを予言される話。最初から最後までどん底。7つの中で最も救いがない話が冒頭に来たので、全体の暗澹イメージが強いのかもしれない。奉納金?の額を自問自答するシーンはオモロイ。

 

「どぶさらえ」
冒頭から早速、意味が分からない。いや、いい意味で。

先ほどから、「ビバ!カッパ!」という文言が気に入って、家の中をぐるぐる歩き回りながら「ビバ!カッパ!」「ビバ!カッパ!」と叫んでいる。

                           本文53ページ

こうして、数ページにわたりビバカッパという文言およびカッパに対する考察が繰り広げられ、それから本題に入る。「ビバ!カッパ!」というなにげない、というかしょうもないように思える言葉にこれだけのロマンを滔々と語るのは、すごい。町田の想像力ちゅうか妄想力ちゅうか、とにかく彼の不思議な力にひれ伏すのみなのよね。

話としては、さる孤立無援になった男がどぶをさらう、というだけの話。悲しみの果てに主人公がどぶに浸かって終わる。

 

「あぱぱ踊り」
自分に根拠のない自信を持っている男を、主人公が追い詰めていく話。主人公の気持ちがわからんでもない、というかよく分かる。男を背水の陣に追い込むシーンはなかなか爽快。

 

「本音街」
本音と建て前がまかり通る現代において、全員が本音のみでコミュニケーションをはかる街のお話。ここで件の卑猥な言葉が出てくる。なぜこの話の卑猥な部分を本紹介に採用したのか、編集責任者に問うてみたい。

本音のみで生きることが許されない社会の中で、この話だけでは人々の真意にふれることができる。そう思うと、なかなかレアなお話。
この辺りから、だんだん短編集としてファニーさが増してくる。ような気がする。

 

「ギャオスの話」
中野区にギャオスという怪獣が出現し、東京を恐怖の底におとしいれる話。
町田が適当に考えたキャラクターが次々と出てきて、それぞれ悲惨な目に遭ったりなんだりしてギャオスのあれこれに一喜一憂する姿が面白い。凡人になりたくない評論家の凡田庸一とか。凡田庸一て。

また、本作において町田の文章が一番面白い話でもあった。

そんなことをしてなにが面白いのかギャオスはもろ手突きのようなことをしてビルを壊した。人が苦労して建設した高層ビルを喜んで突き崩している様はまるで幼児のようであった。

渋谷区高輪で青果店を営む富井巌はその様子をテレビで見て、
「あんなおおきななりをしてなにを子供みたいなことをしてるんだ」と云って苦い顔をした。そういう問題だろうか。

                          本文174ページ

富井巌の的外れなコメントに対し、「そういう問題だろうか」というのは、おそらく町田自身。この時、町田は作者という立場をいったんやめて、読者と人間・町田康という関係で会話するかのような感覚を覚える。他の話では立場が作者のままの時もあるが、こうした本を介した会話っぽい文章がたまーにある。それが、笑える。

 

一言主の神」
弥生とか飛鳥とか、古代日本のとある天皇とある神様の話。この神様は不思議な力を持っていて、まあ神様だから不思議な力くらい持っててもらいたいのだけれど、この神様の力というのが、口にしたものを出現させるという力。
神様が盆カレー、ドカベン、森ビル、メリヤス肌着、女子高生、カルパッチョなど、その時代にはなかったものを次々と出す。
最後に出すのは、ボンベイサファイア

「~じゃん」とか「なんすか」とか「ほんまにええ加減にせえ」とか、セリフが時代とマッチしていないのも隠れた魅力。

 

「自分の群像」
使えない男・温夫の振る舞いや言動に翻弄される社員の話。「あぱぱ踊り」の男といい、無性にいらつかせる人物の描写・設定がうまい。うますぎてイライラする。でも、最後はまあ爽快。

人物のいろんな癖や性格に対する考察が深い。感じがする。

 

 

そな感じで町田康がとても好きです、今。

 

PS:なんで県の運転試験場の係の人はどこかしら横柄なんだね・・・