光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

光る水面のドブイナジー

こんなことを気にかけるのは、世界ひろしといえども自分ぐらいであるが、そう。このなにがなんだか分からないヴログのタイトル「暇人のイマジン」(170520当時)について気にかけている、今。

 

というのも、同じタイトルのヴログやらなにやらを、たまたま発見するに至ったからである。

事の顛末を書くと、あまり教えたくなかったが知人に「ヴログをやっている」ことを伝えることになってしまった。あまり教えたくなかったのは、あれ、深層プライベートの保守、みたいなものからね。そんで、ヴログのタイトルを伝えた。

して、暇人のイマジン、で検索をかけてみると、実に色々出てきた。そうである。

 

今思えば、タイトルは変遷してきた。といっても前がどんなだったかあまり覚えていない。2、3度変わったような気がする。変わったというか、変えたの方が正しい。なんとなくフィット感というか、フィーリングが合わないっすよね、みたいなパープリンなスタンスで僕はいた。

そんで、暇人のイマジン。思いついた時、「うほっ、暇人のイマジン。いいでないですかー、暇人がイマジン。イマジンのイマジン、暇人は暇人。いやあ、いい思いつき、アイデーアだ。ユニーク、うほほほほほほ、語呂語感よかー、うほほほほほうひひひひひ」と思った。

 

馬鹿者だった。暇人のイマジンは、花といえばチューリップ、くらいにありふれたアイデーアであった。ユニークの欠片もなかった、っていうかむしろユニクロのように普通な感じしかない。

冷静になってみると、なにが暇人のイマジンだ。馬鹿丸出しでないか。阿呆丸出しでないか。そういえば、バカ丸出しというフレーズはたまに聞くが、アホ丸出しというフレーズはあまり聞かないような気がするのは何故なんだろうか、アホはあまり露出してこないのだろうか。それはこの際どうでもよく、暇人がイマジンしててだからなんだってんだい、え。

とかつての自分に問いただしたい。

 

問いただしてみると、問いただされた自分は正座して肩を縮こまらせているだろうがこう言うだろう。「じゃあ、どうしたらいいんですか」。

答えを即座に聞きたがる・聞けると思っているのは現代人の悪い癖だ、みたいなことをどこかの爺さんが言っていたが、これはある程度その通りで、「てめえで考えろ」と叱咤・激励されるのがオチである。

 

が、この場合のてめえは、文字どおり手前であり、つまり自分なのでやはり自分で考えなくてはならない。ならなくなった。

気分は、イソップ物語に出てくる犬である。あの、肉を咥えながら川面に映った自分を見て、その映った自分の肉も取ろうとした結果、咥えていた肉を川に落としてしまう、というあの間の抜けた犬野郎。

 

 

ということで、犬野郎の気持ち・ハートで考えた。したところ、この犬野郎の状況・心境は以下のようなものだったと思われた。

 

古代ギリシヤの片田舎、日本でいうと鳥取県のようなところに小汚く黒い犬がいた。飼い主がないため名前はなかったが、村人からはその容姿からドブと呼ばれ、それはなんだか側溝のドブを連想させて切ないので、自分ではドビーと言い聞かせていた。

ドビーは身寄りの者がない、年老いた野良犬だったので、その日の食うものにいつも困っていた。街の貝塚に人間の残り物や他の犬の食べ残しがないときは、森でドングリを食べたり川で雷魚の死んだのを食べていた。

そんなある日、テムズ川にかかる橋を渡ろうとしていたドビーは目を疑う馳走に出会う。肉が落ちていた。ドビーははるか昔、精肉屋の近くをうろついていた時に肉屋のおっさん(アーノルド・ラスタマン)が客に肉質の説明をしていたのを聞いていたので、目の前の肉がA5クラスの肉であることが分かった。なんでテムズ川の橋にそんな肉が落ちていたかというと、アーノルド・ラスタマンの甥っ子であり運送屋を営むパプワ・ラスタマンが輸送の際に偶然落としていったからだった。パプワ・ラスタマンは楽天家で、少し詰めの甘いところがあり、これまでにも何度か肉を落として生きてきた。というのはドビーにとってどうでもいいことだった。ていうか、とにかくドビーは嬉しかった。感動のあまり毛が抜け、脳内麻薬が分泌され、そのまま桃太郎と鬼退治に向かっても良いとすら思った。しかし、ここはエウロパ。桃太郎は岡山県にいたので、桃太郎に着いていくことはできなかった。桃太郎に着いていけなかったので、仕方なく走るしかなかった。ドビーはうれしさのあまり、イナジーに溢れていたのである。

イナジーの許す限り、ドビーは走った。テムズ川を越え、ドナウ川を越え、セーヌ川を越え、ライン川のほとりでイナジーが尽きた。肩を揺らして息をした。走っているときは気付かなかったが、川っていいもんだすな、きれいだよ。水面が光って、魚がはねてその水面が揺れて。風が吹いて、また水面が揺れて。波紋が広がって、それが幾何学的で。つうか幾何学的ってなんだ。つうか川、きれい。

そう思ってふと、ドビーは川を覗き込んだ。してみると、そこに肉を咥えた犬めがいるではありませんか。「ややっ、その肉は見たところ相当上等な肉でないかい、ていうかこいつ汚い。しかも年老いて弱そうだよね、正直。他の人のものは取っちゃいけませんて、どっかの誰かは言ってたけどそりゃ平和な世の中で守られた温室野郎の綺麗事よ。こちとら生まれも育ちも野良犬でえ。いわばアウトローの権化でさあ。弱肉強食があちきのモットーでがんす。さあ、痛い目にあいたくなかったらおじいさん、その肉をこちらへ渡しておくんなさい」と犬語でわんわん言い、その肉を取ろうとしたところ。ドビーの咥えていた肉が川に落ちた。それは刹那の出来事であり、気付けば肉は枯れ葉が空に舞うようにユラリユラリとライン川の水底へと落ちていった。

ドビーは、己の愚かさに気付いたが、残ったのは虚しさと悲しみ、そういうこの世のネガティブなものが渦巻いたような、ドブのような感情であった。

 

 

という感じである。といってもアレですが、とりあえずこの犬野郎の気持ちになって考えてみた結果、心に思いついたのは「ドブ、雷魚、ラスタマン、イナジー、渦、光る水面」などのフレーズ。なんとなくポジティブなものから、ネガティブなもの、どちらでもないものなど色とりどりである。

こんなものからタイトルを捻出することは可能だろうか。可能である、と僕は思う。思いたい。

なんとなれば、この世に存在する森羅万象、有象無象にはすべて二面性がある。例えば、台風は災害をもたらすが、なければないで降水に悪影響がある。暴走族はブボブボうるさいが、化石燃料の流通には役立っている。ハサミで人を傷つけることもあるが、使い方次第で人には切れないものをきれいに切ることができる。あらゆるものが正負の異なる相を有している。

 

ということを念頭に置けば、これらのフレーズからタイトルを捻出することは、いける。このタイトルは自分を表すものであり、その自分は二面性の持ち主だ。ということは、この二面性を有するように異なるニュワンスのフレーズを配置すれば、それは物事の肝をついたものと成り上がる、という狙い・作戦である。

つうことでできたのは、「光る水面のドブイナジー」というタイトル。雷魚とラスタマンは渦に飲まれて、どこかへ行ってしまった。

このタイトルの云わんとするところは、「キラキラ光る水面・川面って綺麗だけど、その下にはドブがあるのだよ。綺麗な花にはトゲがある。綺麗な川にはドブがある。それが僕らのイナジーさ」ということである。

 

そういうことを、これからは書いていこう。

佐藤勝彦 縣秀彦 「宇宙には、だれかいますか?」

タイトルがそそる、この本。
その様子からして、宇宙人とかの存在をわーわー書いてあるのかと思ったら、なんか違った。が、予想以上に面白かった。
面白かった、というのは知的好奇心が刺激された、という面白さです。

本書はアストロバイオロジーという、比較的新しいとされる学問分野で研究されておられる18人の科学者のおっさん・おねえさんのお話です。

 

科学者18人にお尋ねします。宇宙には誰かいますか?

科学者18人にお尋ねします。宇宙には誰かいますか?

 

直訳するとアストロバイオロジーは、宇宙生物学・宇宙生命科学、となるのですが、まだ地球以外の天体で生命体が発見されたわけではないので、この直訳はあまり意味がないようです。もともと、NASAの造語だそうな。
 

本書では

現代の生物学は宇宙のどこでも通用する普遍性があるのか。あるいは地球生命はどれほど特殊なのか。そうした疑問を科学的に解明できるように、天文学から生物学までのあらゆる既存の学問を結び付け、組み替えていくための「焼き鳥の串」こそが、アストロバイオロジーでしょう。

矢野創

と語られています。

色々削ぎ落としていうと、「宇宙に我々人間はひとりぼっちなのか、地球生命以外に生命は存在しないのか」(山岸明彦)という疑問を究極的に問うていく学問のことみたいです。本書のタイトルも、この疑問に変換できます。

 

本の構成としては、同じ質問を18人の科学者に問いかけ、その回答をしてもらう。てな感じになっています。質問は

1、研究内容
2、「生命の定義」についての独自の見解
3、地球生命はどこから来たか
4、地球外生命体が発見されるのはどんなところか
5、どうすれば地球外生命体”知的”生命体を発見できるか
6、知的生命体が見つかったとしたら、どういう行動をとるか
7、知的生命体がいる世界には、どんな社会があると思うか
8、人類は、太陽系を超えて天の川銀河に広がりうる生命だろうか

という8つ。これがまた、十人十色というか、十八人十八色です。
色んな考え方があるんだなー。ていうかプロでもこんなに見解が180度違うもんなんだなあ、というのを改めて感じさせます。
ただこれは、「科学者ってやつぁ、てめえの考えを好き勝手に言ってるだけじゃねえかい。誰も信用ならねえなあ、え?」というわけでなく、宇宙のことが本当に分かっていない、分かっているのはほんの僅かな部分でしかない、ということなのでしょう。

だから、この本を読んでも「宇宙にだれかいるかどうか」というのは分かりません。
みんな言ってることが違くて、何が正しいのかはっきりしません。
ただ、それはこの本のひとつのミソであると思います。

 

この「分からない」というのは他の分野にも十分言えることですが、ことに宇宙に関してはその割合は非常に高いでしょう。その網膜に映すことはおろか、理論や想像で語るしかないような世界が大海よりも広く果てしないのですから。
僕のような者が改めていうことでもないのですが、その果てしなさゆえに、人類は宇宙やそのほかの「分からないもの」に強いベクトルを持つのだと思います。
18人の色んな姿・研究から、その点を改めて感じました。

 

このアストロバイオロジーという新たな学問は、宇宙のことに目を向けながらも、我々地球人のことを知る手がかりにもなるようです。これは現代で例えれば、はじめて海外に出た人のことを考えると分かりやすいかもしれません。

母国を離れ、それまでとは違った文化や環境、風景を知ることで、今まで気づかなかった自分の国やそこに住む人々と文化の特殊性、ひいては自分がどんな存在かということに、自ずと気付くことになるでしょう。

宇宙にはほかの生命体がいるのか、いるとすればどんな環境で、どんな形態をし、どんな在り方をしているのか。いないのなら、何が足りないのか、無いのか、過剰なのか。
ひいては、生命とはそも何なのか、何を以て生命とするのか、我々人類が生命であるとするのはどういうことなのか。
そう考えていくと、地球の起源や、その上での生命(人間やそのほかの生物)の起源や進化、未来などについて考えを深めることになる、というのがアストロバイオロジーのゴールなのです。

 

陳腐な言葉ではありますが、まさに人類のロマンというか、究極にして切ない、永遠のマイルストーンのようなものがアストロバイオロジーにある気がします。
というのが、本書の感想。

 

色々な学者の独自の見解は楽観的なもの・悲観的なもの、現実的なもの・やや空想的なもの、生命体はいる・いない、とそれこそ色々でしたが、特に気になった考え方をしていたのが、須藤康という東大大学院の教授でした。

このしとは、6、知的生命体が見つかったとしたら、どういう行動をとるかという問いかけに対し「あまりにも危険なので、直接接触するのはおすすめしない」という、ややクールなおっさんですが、8、人類は、太陽系を超えて天の川銀河に広がりうる生命だろうかの問いかけの回答がなんか悟っている感じである。

ただ私の哲学としては、その時は観念して諦めるべきではないかとも思うのです。少なくとも、この地球を後にして別の惑星で生き延びるという意見には賛同しません。この宇宙のあらゆる天体は、誕生してやがて死んでいきます。これは宇宙における物質循環という科学的な話ですが、ある意味では天体の輪廻でもあります。そのような自然の宿命を超えてまで生き延びようとするべきではないのでは、というのが私の価値観です。あまり夢がない枯れた意見ですみません。

現実問題として将来的に、地球は住めなくなる。その時は宇宙進出を実現させようとする人は出てくるだろうし、それは可能だろうという人もいる、という話をした後の須藤教授の見解です。

輪廻転生を、宇宙や天体規模でとらえる。
その哲学は、人類をより宇宙へと近づけるものです。

 

他にも、関根康人東大大学院准教授、矢野創JAXA助教の見解などが印象的でした。

私が子どもの頃は、星好きの子が夜空を見上げれば、広大な宇宙の中で孤独を感じるという、「ひとりぼっちの地球人」のような世界観でした。ところが1995年に初めて系外惑星が見つかったという報告を聞いたあとで夜空を見上げた私には、目の前で輝いている星々の周りにはある割合で生命がいる惑星があってもいいんだと思われ、星空は孤独を感じる対象ではなくなりました。

矢野創