光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

町田康 「リフォームの爆発」

作家という人種はなんでも本にしてしまうらしく、この本はというとそのタイトルの通りリフォームについて書かれた本である。はきといって、珍書。


リフォームの経緯は諸説あり、作中でも述べられているが、「スピンク」や「猫」のエッセイと併せて読むと、よりいっそう現実味と臨場感が加味される感じで、よい。

 

リフォームの爆発

リフォームの爆発

 

 あらすじ、なんてなものでもないが、本作はなんだか知らんが論文調に書き始まっており、次のような章立てが一応ある。

1、リフォームとはなにか
2、リフォームの工事について
3、リフォームの効果について
4、リフォームの金額について
5、リフォームの今後について

とのことで、「わあ、なんかいつもと違うテイストだすなあ、お堅いのかなあ」と面食らうかもしれない。が、その心配はご無用で、というのも読んでいくと分かるのだが、その後こうした体裁で話を進める様子が一切ない。安心するような、ちょつぴり裏切られたような、安心するような。そういう複雑な、ファジイな乙女心を感じさせなくもない。

まあ、章立てで理詰めで上のようなことを語るのではなく、町田康の観察眼と語彙、妄想・思考実験によってそれらが描かれている。

 

 

町田康が言うには、リフォームには「永久リフォーム理論」という落とし穴があるそうで。これは、「ある個所に不具合があってそこを直して不具合を解消するのがリフォームであるが、その不具合解消のために不具合の具合を調べてみると、思いもよらなかった潜在的な不具合に気付いてしまうこと」を指している。
そして、この落とし穴に対処すべく町田康は3つの理論を開発した。すなはち、
・夢幻理論
・御の字やんけ理論(正式には、不具合を解消しようとするも解消しきれず生じるであろう不具合を解消することによって最初の不具合は完全に解消できなかったがけれども生ずる不具合というのは考えてみれば今も生じている不具合でそれがなくなるだけでも御の字やんけ理論)
・夢幻ポイント因縁理論

という理論である。これらがどんな理論なのか、というのが気になるのが人情である。が、それを記述するのはしんどいので、気になる御仁は町の図書館に行くか、未来や書店などで取り寄せると、図書館の係の人や未来や書店の店長なども嬉しみを感じてくれるし、その理論を知ることができるし、ウインウインであると思う。

 

という感じで、これらの理論を駆使し、時には笑い、時には涙し、時には踊って町田康のリフォームは着々と進んでいく。「スピンク」や「猫」エッセイで、家や引っ越し、リフォームのことが語られることがあったが、その裏でこげな地道な姿があったとは・・・目からうろこが落ちました、町田康万歳。という感じ。

 

職人さんや担当者とのやり取りも、町田康の観察眼が光って面白い。特に、ある頑固で職人気質な職人さんを恐れていたが、ある事件をきっかけにやや和解するも4日後にはまた恐れるようになる「警備会社の侵入事件」や、流し台を運ぶ怖そうな職人さんに勇気りんりんで意見する「鰯のフリッター事件」など、エトセトラ。

 

 

とそんな風なリフォームに対する町田康の考えというのは、けっこう多くの「リフォームしようかな、と考えている人」や関連業者の方が現実で直面することでもある気がする。
前者にとってはリフォームの体験談として、後者には顧客がどんなことを考えているのかを知るすべとして、わりかし有用な書であると思いまふ。

町田康 「人間小唄」

純文学。そこはかとなく純文学。
そう感じてやまないのは、まったくもって著者の意図が分からない、そういう話だったから。情けないことである、かたじけないことである。作者の意図をくめないことほど悲しいことはこの世にはない。げにいみじきことである。

 

人間小唄 (100周年書き下ろし)

人間小唄 (100周年書き下ろし)

 

 とは言い条、まったく露ほども理解・知覚できなかったかといえばそれは嘘で、なんとなく分かるようなそんなこともあった。嘘はつきたくなく、なんとなれば嘘をつくと死後裁きにあうとのことなので、感じられたわずかな事をここに記す。平成二十九年五月十日、赤口、天気はくもり時々雨。

<あらすじ>
ある日、不細工な短歌が届いたのは、作家・糺田両奴その人。このところ筆の進みが遅々としていた糺田は、その不格好な短歌をもとに作品を手がける。作家は腐っても作家、材料がなんであっても一応それなりの体裁で文章を拵えることができた。糺田はこのどうしようもない短歌から作者その人を徹底的に分析したのである。
これに怒ったのが小角、この短歌の作者であった。自分の文学を否定され、人格を否定され、恥辱の限りを尽くされた。むかつく。糺田の文学の破壊。それが小角の願いである。
そして糺田はこの出鱈目な話を発表したばかりに、小角から3つの選択肢を迫られることと相成った。その選択肢とは、秀逸な短歌を作ること、ラーメンと餃子の人気店を営業すること、そして人を暗にあやめることである。「無理なことばかり言うなっ」と憤る糺田であるが、他人の作品を愚弄した罪は重い。糺田文学の運命やいかに。

 

とまあそんな感じのお話・ストーリイであるが、全体的な雰囲気は「権現の踊り子」や「けものがれ、俺らの猿と」での山中で遭難するくだり、に似ているものがある。

話の芯となるテーマは、「表現としての芸術」というか「芸術表現における個人の影響」というか、まあ町田康の表現論、芸術論、そのへんの類だと思う。思った。思われた。

 

といって印象的なのは、猿本丸児という総合プロデューサーに関するくだり。
猿本は若い女子でグループを組み、自ら作詞作曲を手がけた歌を歌わせ、あるいはラーメン屋の店員として彼女らを起用し、商業的大成功を収めている。
また、彼の作品は一様でなく、「本当に鋭敏な感覚で作るもの」「鋭敏みたいな感覚で作るもの」「まったく鋭敏じゃない感覚で作るもの」と作品ごとに濃淡がある。
そんなことから思い浮かぶのは、秋元康という人であるまいかー、という思い。

秋元康のことを指しているかどうかはまあ置いておいて、町田康はこの猿本の表現に対し危機感を抱いている。

なにがもっとも問題かというと、その猿本の作物の影響力が大きく、(略)人々の耳触り、目触りのよさを眼目として制作されているという点がもっとも問題なのである。

それがよき方向に向かおうと悪しき方向に向かおうと、およそ人に影響を与える言説はそれ自体に一定の力と方向性を内包している。強烈な核、のようなものがある。根源なパワーがある。はずである。

ところが猿本の作物にはそれがない。当たり前だ。猿本は人々が、だいたいこういうことを言われたらうれしい、というアンケート調査、世論調査に基づいて、プロデュースしているのだ。

それは大変におそろしいことだと俺は思う。

だってそうだろう、自分が影響を受けている、そのことを自分の人生の規範としている、ということ、じゃないとしても、自分が楽しい、自分が楽、な状態に自分を導いてくれる教え、みたいなことが、実は自分の感情に過ぎない、ってことだからである。

っていうのを具体的に言うと例えば、自分を大事にしろ、というメッセージがあって、それを聞いて、おっ。自分というものは大事にしなければならないのだ、と信じ、バイトとかにいっても自分を大事にして、自分を侵害してくる上司や顧客から自分を守る。そうすっとどうなるか。社会と自分の間に軋轢が生じる。でも、自分はそのメッセージを受け取ったのだし、自分は自分を大事にする、といって頑張る。結果、解雇ということになって、自分は収入を失うし、社会の側も多大な迷惑を蒙る。しかしそれもしょうがないじゃないか、だって、自分はこれを大事にせざるをえないのだから、という、その教条が、お釈迦とかマルクスとか後期デリダなら、それに則って行動しても、まあ、間違っていないのかも知れないが、実際はそうではなく、自分が、客の灰皿替えんの面倒くさいな、とか、女にチヤホヤされたいな、とか、天玉うどん食いたいな、といった瞬間的な思考・感情を一言で言い表したものに過ぎないのに、それが、当代の売れっ子プロデューサー・猿本丸児が手掛けたということで昔の、修身・道徳の代替物のように世の中に浸透していくのである。

繰り返すが、それはつくづく恐ろしいことであると思う。

それは人間の方向の定まらぬ欲望に正しさの墨付きを与えたことになるから。

                          190、191ページ

そして、

そのことがなにを齎すかというと、感受性の堕落のような劣化、である。そして、その堕落するように劣化した感受性に基づいて作られたものに影響された感受性に基づいて作られたものは、堕落した感受性に影響を及ぼし、その劣化した感受性に基づいて作られたものがさらなる感受性の堕落を招き・・・・、という泥沼に全国民が嵌っていく。

それをひとりで画策しているのが、他ならぬ猿本丸児なのだ。

                            194ページ

町田康はこのことを、小角の口から語らせているが、これは町田康本人の言葉であると思う。つうか、書いてあることは全部町田康その人の言葉なのだが、この部分にはとりわけ作者のエナジーがこもっている。

感受性の堕落、が悪いことなのか、間違ったことなのか、ていうか本当に堕落しているのか。
それはまあ一元的に喝破することはできないのかもしれないけれど、少なくとも町田康はそれを憂いているらしい。そしてそれを町田康のように言葉にはできなくとも、なんとなく感じている人が他にもある、ということは日常茶飯で感じられることである。

 

表現ってなんなのか。共感ってなんなのか。売れるってなんなのか。受けるってなんなのか。文学ってなんなのか。
そんなことを町田康が狂気の中に見出した物語であると、思うっすわあ。