光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

ジャックデリダの言葉から 馬

「テクストの外などというものは存在しない」。
少し前の朝日新聞のコラムにあった。フランスの哲学者、ジャックデリダの言葉である。
歴史とは、無数の出来事の中からある事実を選別し、文字化して編集されたものだ、といったところらしい。こうした作業の裏には、歴史として残らない物事がある。

小中学校の時分、歴史の授業で【屯田兵】という存在を知った。北海道開拓の功労者として広く認知されている。だが、彼らと同じように、あるいはそれ以上に貢献していた馬の存在は彼らほど知られてはいない。

「馬のねぇ生活なんて考えられなかった。こいつらがいたから、俺たちはここで生きてこられたんだ」。北海道・帯広の競馬場で調教師をされている方から伺った話だ。帯広競馬場では、馬におもりを引かせて競うばんえい競馬というレースが行われている。馬の品種は重種に分類され、よく知られるサラブレッドと比較してみるとその体躯はゆうに2~3倍大きい。

おもりを引く、という独特のレース形態は馬たちが生活の一部にあった頃の名残だ。農作業や炭坑の採掘、運送といった場面に必ず馬の姿があった。
【馬力】という言葉があるように、馬の力は人間のそれを遥かに凌駕する。馬なくしては、今の北海道がなかったとも語られる。

しかし、そんな馬の役目も終わりを告げる。高度経済成長とともに訪れた、モータリゼーションをはじめとする各分野での技術革新である。
馬車の代わりに自動車が走り、畑には堆肥でなく化学肥料がまかれた。速くスマートな発明品を前に、馬はもはや時代のお荷物と成り下がった。

そこで新たな利用価値として競走馬の道が開かれた。興行はけして順調ではないが、近年ではその歴史的な価値が見直されつつもある。
歴史の選別は致し方ないものたが、もし私たちがこの馬のことを忘れてしまえば、それは北海道の文化の灯がひとつ消えることになる。

再考~なんで小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか

ここのところ不穏な動きを見せている北朝鮮であるが、某県某村の過疎のように過疎っているこのブログでも不穏な動きをみせるものがある。
つうのは、「なんで小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか」という当ブログで大昔に描かれた記事である。

 

jusdayo.hatenablog.com

不思議なことにこの記事、未だにアクセス数が一定数あるらしい。

アクセス解析というか、アクセス元・検索元を調べてみると「鉛筆 噛む」とかで検索してこの記事にたどり着く人がそれなりにいるみたいなんですな。
こんな記事を書く方も書く方だが、調べる方も大概である。日本の未来はどうなるのであろう。
しかし日本の未来を案じつつも、そんな少数な大概の人(日本語が変だけど)のためにここはひとつ、この問題について今一度切り込んでみたいと思う。

 


・再考 なんで小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか
再考の前に留意点として、
・学術的なアプローチは一切取らず、というか取れず、私の独断と偏見による妄想の域に留まるものである。他の検証や記事などを一切引用しないために信ぴょう性は極めて低い。つまり、この記事はメルヘンかつファンシーの類に属する。
という点を前提とする。


まずこの問いから連想される疑問は次の4点である。
1:なぜ小学生男子か。女子ではだめなのか。小学生である必要はあるのか。
2:本当に小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか。
3:噛むのであればそれはなぜなのか。
4:他の尻は噛まないのか。

 

:なぜ小学生男子か。女子ではだめなのか。小学生である必要はあるのか。
まず、なぜ男子である必要があるのか。
それはもうなんていうか、はっきり言って見た目である。ここに全ての理由があるといってもよい。なんとなれば、鉛筆の尻を噛む女子の姿をイメージしてほしい。きっと複雑な気持ちになったはずだ。とはいえ、僕は男子を貶めているわけではない。

なぜなら鉛筆を噛むその姿は、獣が獲物にかぶりつき狩る姿に近い。
今をときめく「けものフレンズ」のような「けもの」ではなく、涎を垂らし犬歯をむき出しにした獣である。けだもの、と読んでも差し支えない。時に女性は男性のことを「このケダモノ!」と罵ることがあるが、それは当然である。男には人間が進化するにしたがって薄めてしまった野生の名残、すなわち狩りへの欲求が強く残っているからである。
その昔、狩りとは獲物をねじ伏せる力が必要で、逞しい男性がその役目を担っていた。

ということで、鉛筆を狩る・噛むという行動もこれ、男子の役目なのである。

 

小学生である必要はこれはもう明解で、中学生以上になるとみんなシャープペンを使い始めるからだ。シャープペンは噛んでも噛み甲斐がない。多くがプラスチックでできたそれは、噛んでも堅いだけだからだ。
中には、小学生中学年あたりから背伸びをしてシャープペンを駆使し始める猛者もいる。その意味で鉛筆を噛む小学生とは、低学年を特に指すだろう。

 

:本当に小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか
これは数字に頼るしかないと思われるが、手元にデータがないためどうしようもない。
と思われたが、グーグルという検索エンジンに「鉛筆 噛む」と入れてみると、検索結果がわんさと出てくる。
ということは、一定数の噛み人がいるという証拠であり、「本当に噛むのか」という疑問については自信を持って「噛む」と答えることができる。

男子1000人につき何人が噛むのか、といった詳細なデータをとることは叶わないが、上のような事実が盤石である以上、この疑問は解消されるといえる。

 

 

3:噛むのであればそれはなぜなのか
これについては、噛んでいた当事者として考えてみたい。
まず思い出すのは、どっかの外人のおっさんが言っていた「なぜ山に登るのか?そこに山があるからだ」という登山家の名言である。

椅子に座り授業を受ける。板書するために頭をもたげると、ちょうど口元に鉛筆の尻がある。鉛筆がそこにある。淡々とある。この事にそれ以上の意味もそれ以下の意味もない。独立した一個の人間と一個の鉛筆の対峙。その刹那、その存在に働きかけるのは自然である。

これをアダルティックにいえば、乳首などをイメージしてもらっても構わない。
よく考えてみると、我々はなぜ乳首に執着するのだろうか。なんとなれば、つまみ、吸い上げる。噛んだりもする。それはなぜか?そこに乳首があるからだ。

 

ああ、なんか乳首を例に出したらすっきりしたような気がする。
というのは、小学生男子というのはまだ幼さの抜けない時期にあるもんであり、エディプスコンプレックスというか、母性への憧憬が抜けきらないところがある。
かといって、ランドセルを背負った今、家に帰って「ママ―!」と叫びその胸に飛び込み噛り付くことは小学生内の世間的に許されない。そんなことが許されるのはマザコンスネ夫だけである。

少々論点がずれるが、その許されない乳首への欲求を、鉛筆を噛むことで代替的に満たしているのである。

 

4:他の尻は噛まないのか。
他の尻は噛まないのか、ということだが他の尻も噛むだろう。
尻かどうかは置いておいて、爪とか箸とかレゴブロックとか、とりあえず口に収まるものは噛む傾向にある気がする。

ただ、このへんになると鉛筆とは多少事情が異なってくるので、また違う考察が必要になるので別の機会に譲りたい。

また、そのままの意味で「鉛筆の他にあたる尻(HIP)は噛まないのか」という疑問も出てくる。これについては小学生のうちはまだ、としか言えない。彼らはまだ幼い。しかし小学生男子も、もれなく男である。いずれ、誰かの尻を追いかけ尻を噛む日もやってくることだろう。だが、彼らのそうした純粋なセクシャルな欲望を押さえつけてしまっては後々の反動が怖いものだ。この点に関しては余計な首を突っ込まずに、健全な成長を見守り、道を誤りそうになった時に介入すべきだろう。

 

 

以上、改めて「なんで小学生男子は鉛筆の尻を噛むのか」ということについて考えてきた。いくつかの仮説を立てることになったが、その真相はいまだ明かされるものではない。
今後の関連する研究がこの生命の神秘を解き明かしてくれることを、一男子として切に願う。

 

 

PS:今日のバイトの面接官は、曽根史郎の「若いお巡りさん」のような感じだった。