光る水面のドブイナジー

読んだ本とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

鼻腔の警告

かさぶた、ってあるでしょう?あれって剥がしたくなっちゃうけど、剥がしたら剥がしたで、痛い思いした上に血が出てきてその辺に鮮血がついたりして後悔するじゃない?かさぶたを剥がした達成感、みたいなものもあるけど、血い出した上に傷を自分でこじ開けるってその行動?衝動?よく考えてみるとめっちゃ阿呆じゃない?「分かっちゃいるけどやめられない バイ・ハナ肇」って云う言葉があったけど、これってかさぶた剥がしの後悔と達成感が入り混じった機微にかなり近しい感じがするのよね、私。


とオバサンが卓袱台に肘をついて話す光景が浮かんでしまったのが3分前の私。
もっと考えることは有るだろうに、と思うのだけどもイメージしてしまったものはなるべく外に出してあげたいので、こうして書いたがそれにつけてもかさぶたで思い出すのは鼻腔のかさぶた。
これについて書く前に鼻毛の話をしなければならない。

当時20歳と少しだった私は鼻毛切除マシーンを持っていなかった。っていうか今も持っていない。鼻毛切除マシーンというのは鼻毛カッターのことである。
鼻毛カッターすら持たないで20数年も生きてきてしまって、なんだか世間に悪いような気がするが、その間鼻毛はどうしていたのか、というのが気になるところかもしれない。

鼻毛切除マシーンを持たない私は、小さなハサミで鼻毛を切っていたのである。やり方は簡単で、まず小指で鼻毛の位置・伸び具合を確認。その後、ハサミを鼻につっこみ入れてシパシパ切る。
その際、鏡などは用いない。鏡があるとどうしても鏡面に目がいってしまい、そこに映る自分を見てハサミを操作することになる。で、困ることがでてきた。というのは、鏡という奴が映す自分は左右が逆で、ハサミの操作がまったくうまくいかない。これは例えばスーファミのコントローラーを逆さに持ちながらドンキーコングをやるようなもので、なまらズレた感覚に陥るのである。

ハサミの操作が覚束ないということは、近くにあるものを傷つける可能性が高くなるということで、近くに位置している目玉や唇、頬、その他顔面の細胞を著しく損傷する恐れがあった。
その実際的な危険に加え、鏡を見ながら鼻毛を切る、その光景が間抜けそのものであったことも鏡を使わなかった理由のひとつである。鼻毛を切ろうとしている人間の顔を君は見たことがあるか。見たことがない人はぜひ一度見てみることをここにおすすめするが、懸命に鼻腔を拡げようとする時、持ち上がる鼻の穴に吊られて上唇らへんの筋肉も緊張するのである。なんていうか、こう、鼻の下にめちゃ力入る感じ。するとどうなるか、ってえと口元がなんか、キマるのであるよ、これがまた。このキマり方というのが爽やかとか美男子の雰囲気が漂うキマり方ならいいのだが、そうではなく、なんつーかむわあっってしたオッサンが鼻息を荒くしている時のようなそんな口元になるの。鼻の穴ひろがってるし。
己の阿呆顔を見ながら鼻にハサミを突っ込んでいるその光景というのは、友人はおろか肉親にも見せることが憚れるもので、自分でもなるべく見たくないものだ。というかそれを見ているとなんだか自棄になり笑けてきて、いよよ操作が不安定になり、不具合である。
だから、鏡を見ながら鼻毛を切るべきではない。


ということで鏡を見ずに己の感覚だけで鼻毛をハサミで切っていたのだが、ある時、鼻腔の壁面を刻んでしまったことがあった。
その時の擬音は「ザクッ!」あるいは「シャキッ!」てな感じかと思うが、まあ血が出てきた。けっこうドバドバ出たと回想する。駑馬駑馬の鼻血。

そんで、傷が比較的広かったからか、かさぶたができてきたのですわ。鼻の穴の中に。これがね、気になるんですよ、けっこう。汚い話、鼻くそがずっとあるようなもので、でもかさぶただから剥がせない。だがしかし、かさぶただから剥がしてしまう。

ここに矛盾が生じるわけですが、ハナ肇の「分かっちゃいるけどやめられない」のように、耐え難い欲求と自己抑制が織りなす相剋心理は、人間の性そのものであります。
かさぶたは人間の性を具現化したものやもしれない。俺はなんだ。人間だ。人間の性に従うことがあっても、抗えないことがあっても、いいじゃないか。人間だもの。
と当時思ったか思わなかったか定かでないが、気になって仕方がなかったので、かさぶたを取りに取っていた。
驚くのは、その達成感である。そのかさぶたの大きさは鼻腔から出てきたものとして考えると結構でかいもので、約1cm四方ほどもあるものであった。毎回。
ここにはふたつの達成感、爽快感があった。ひとつは鼻腔の異物を取り除いた気持ちよさ。もうひとつは、かさぶたを取った時特有の気持ちよさである。またも汚い話で恐縮だが、体内から排出するものの規模が大きければ大きいほど、なんであれ心地よさを感じるのが人間だという気がする。
私は当時、毎日のようにこの快楽を味わっていた。しかし、この世の掟は諸行無常。かさぶたにも終わりがあった。最後のかさぶたはとりわけ大きかった。そして、鼻腔を小指で探ると、新たな皮膚がそこにあった。以降、私は鼻の穴からかさぶたを取ることがなくなった。
爾来、日々のささやかな幸せを失った私は気力体力精力すべてが衰え、金運が下がりカラスに吠えられ肥溜めに落ち蛞蝓を踏みヤンキーに絡まれ架空請求に大金を払い、深海魚のような生活を送っている。

深海魚といえば、梅崎春生チョウチンアンコウに関するエッセーがおもしろい。

煉獄の保護団体

最も近い頃のことを世間では最近というけども、その最近のこと。
近頃のマイブームについて申し上げる。

そのマイブームとは、カナブンを投げることである。
驚くなかれ、やつらは投げると必ず、羽ばたく。そして飛んでいく。
これまでに92回くらいこの投擲を繰り返しているが、一度たりとも奴らが羽ばたかなかったことはこれ、皆無である。

よく、いい反応がない人のことをさして「打っても響かない鐘のよう」と表現することがあるが、カナブンに例えるなら「投げても飛ばないカナブンのよう」。
ちょっとずれているような気もするが、まあそんなところ。

っていうかカナブンを投げる、という日本語はあまり耳にしないため、そのイメージが難しく、面白さや感動があまりうまく伝えられないのが癪であるが、このカナブン投げは私が自信をもっておすすめできる、数少ない活動である。

唯一の懸念としては、まさかいないとは思うが、昨今は野生動物・自然保護活動が盛んな時代であり、カナブンもそのカテゴリーにどちらかというと入っているため、カナブン保護団体が存在する可能性がある、ということ。

カナブン保護団体の人にこのマイブームを知られるようなことがあったら、「カナブンを投げるのはやめていただけますか、即刻。あなた、投げられるカナブンの気持ちになったことありますか、ないでしょう。カナブンは緑色で、きれいで頭のいい昆虫なのよ、それを投げていい道理がありますか、ないでしょう」とカナブン保護論を展開されるに決まっており、そうなるとそういう保護団体の人たちは聞く耳を持っていないことが多いためいくら反論しても議論は平行線をみはるかすばかりで、最終的には家に不幸の手紙が届いたり、夜中2時くらいに非通知で「わたし、カナブン。今あなたのうしろにいるの」と電話(line 通話)がかかってきたり、みそ汁にホタルが入っていたりと嫌なことがあると思う。


だからこれからはカナブンを投げるのをやめようと思う。


という決意はそこまでカナブン投げに没頭していない半端者がすることであり、すでに色々と半端者の私はせめてカナブン投げくらいは半端者の烙印から逃れようと思うので、これからも誠心誠意、カナブンを投げることに努めていきたい。

敬具。