光る水面のドブイナジー

書評とイマジンを、だだもらしていこうというヴログ。

甘の崩壊

他人に甘えて自分に甘えて大人に甘えて子どもに甘えて教授に甘えて後輩に甘えて先輩に甘えて社会に甘えて生活に甘えて自然に甘えて批判に甘えて技術に甘えて言葉に甘えてお金に甘えて気持ちに甘えて社長に甘えて女に甘えて死者に甘えて男に甘えて時間に甘えて本に甘えて、母に甘えて、父に甘えて、勝手気儘に虚無感に甘える。

どこまで甘えるのか。甘えれば気が済むのか。気は済むのか。
そう考えることすらにも、今こうして甘えている。
ここまでくるともはや、甘、という字が墓参りで携帯する水おけのよう。

俺の尻アイドルの尻

今、世間ではツイッターというものが往来を席巻していて、有象から無象までの人間がこれを利用しては何かの宣伝をする、誰かを脅かす、猥雑卑猥な文言・写真で異性をたぶらかすなどしていて、けっこう盛り上がっているらしい。

らしい。というのは自分はそのツイッターという現代ツールを使用することはおろか、接触を試みることも日々の生活の中で皆無である、という体たらくであるからで。
これはこの混沌極まる現代社会で、みんなが一致団結して歩みを合わせ、ツイッターを使って世界を改善していこうぜ、という潮流に逆らう行為であり、まったくもって罪深いことである。いみじきことである。

 

このまま世の中の流れに逆らい続けていては、死後、神の名のもとに裁きを受けることは確実で、自分としてはできることならば裁きは軽くしてほしい、受けたくないという切な思いがある。
そこで、その罪滅ぼしとして、ツイッターではないがこうしてネットサーフィンをしたり、犬畜生のようなヴログを書きなぐることで世の中の潮流のはしっこの方を、ちゅちゅちゅちゅと流れている。

 

そんで、サーフィンをしていたところ、町田康ツイッターで「今度、本を出すんだけど、サイン会というのをやるから暇なら来てもいいんじゃないかな、ま」という旨の投稿をしていたのを発見した。

光の速さで、行きたい。と思った。
と同時に音の速さで、行けない。と思った。

 

6月6日、その日に新宿かどっかの紀伊国屋で決行するらしいが、その日は先約があった。
先約、というとどこか遊んでる感じ・予定がつまってる充実系男子(モボみたいな)のようなムードがあるが、そうではない。女子高生と遊ぶのでも、ネルトンパーティに参加するのでもなく、痔の治療のための通院である。

むわあ。むわあああああっ。俺は尻のために、町田康に会えんのかああああっつ。
尻のせいで好きな人に会えない。これほど悲しいことはこの世に見当たらない、と言っても過言ではなく、っていうか悲しいというよりも情けなくなってくる。文字にしてみるとその情けなさは倍増し、情けなさが倍増した俺は俺の尻を呪う。

がしかし、果たして俺はこれでいいのだろうか、というクールな考えも看過しがたい。
俺が俺の尻を呪う。「はっ、この尻が。尻の分際で俺に盾つこうったってそうはイカのキンタマよ。てめえは一生尻として尻らしくしてやがれ、むわあああっ」とか言って俺は満足するだろう。
だが、それでいいのか。尻を呪って、世界はよい方向へと進んでいくのか。憎しみは呪いを生み、呪いは憎しみを生む。なんたら因業の深い輪廻ではないか。というかっていうか、尻を治療してくれた医師の気持ちを考えたことがあるのか。見たくもない尻を見て、触りたくもない尻に触っていたあの医師の気概を思いやったことはあるのか。人の気持ちを考える、想像することから世界はやさしくなるのではないか。違うか。加えて、自分のその尻にも悪いと思わんのか。お前の尻だって、なにも好き好んでお前の尻を担当しているわけではない。できればもっと若い、たとえばアイドルの尻とかを担当したかったはずだ。だが、お前の尻はアイドルの尻になることに拘らずに、お前の尻を受け持った。誰もやりたくないことはこの世の中に星の数ほどあるが、誰かがやらなければこの世界のシステムが狂ってしまう。そこでお前の尻は自己犠牲を払って、お前の尻を担当してきたのだ。その気持ちがお前に分かるか。阿保の閾値の分際で。

 

とここまで考えて、自分は自分の考えの至らなさを後悔した。
僕は世界の平和のために、尻のために、これからは生きよう。医師に感謝し、尻と手を取り合って生きていこう。愛と勇気だけが友達さ。っていうか、北朝鮮もISISも友達さ。なにもかも、むわああああああっ。

 

と無理・矢理、思ってみたものの、やはり行きたいことには変わりなく、かといって行けるものでもなく僕は6月6日尻の病院にいく。やり場のない感情に囚われた僕は、いったい何を呪えばいいんだろうか。ひとまず、こんな時間まで起きてしまった自分を呪う。
ホサナー。